2020年1月1日水曜日

[翻訳] 朝鮮の料理本一覧

1600年代
書籍名 著者 出版時期 主要内容
山家要錄 御醫 全循義 1450年 文宗1450年に書かれた料理の本であり農業本で"農村に必要な記録" 229種類の調理法(37種類のキムチと酒づくり66種類、食醯も7種類と温室設計法は西洋の温室より170年先んじる)
食療纂要 御醫 全循義 1460年  世祖1460年食醫心鑑と食料本草で補缺して食治經史證類備急本草などいつも使う食治簡易法を45問(韓流ドラマ大長今の宮廷料理韓国料理食事療法の書-これが民家にきて私たちの食床だ)
需雲雜方 金綏 1540 年頃 最古の漢文食べ物本 酒と麹(*1)に関する内容が詳しく記録される
キムチをチムジョまたは沈菜と称する
屠門大嚼 許筠 1611 年 朝鮮八道の名産食品を列挙した食品書 今日コチュジャンの代わりに山椒醤(山椒味噌)使う
芝峰類說 李●(目+卒)光 1613 年 一種の百科事典 食べ物に関する考証的説明が多く載せられ唐辛子が初めて登場する
攷事撮要 魚叔權 1638 年 管理の日常業務に必要な事項を編集 酒醸造,醋製造が書かれている
飲食知味方 (閨壼是議方) 石溪夫人
張氏
1670 年頃 最古の具体的なハングル料理書 拘肉調理法,成火調理法詳しく出てくる。 肉類の薫煙保存法が出てくる
要錄 著者未詳 1680 年 キムチの材料で瓜類がたくさん使われキムチ用香辛料で山椒,ショウガを使い食醢を作る方法が出てくる
治生要覽 著者未詳 1691 年 漢文になった農村家庭百科書 醋,醬,酒の製法が出てくる 救荒,饌法,果実収蔵法などが書いている
酒方文 河氏誠意先生 1600 年代末葉 ハングル料理書 料理全般にわたって説明されている サンファ(*2)やヌルミに対して詳しく説明する
*1 酒を醸す時使う発酵精である。 小麦粉を丈夫にこねて押して浮かす。 こねる時,普通麹はミールした話で小麦粉二つの升を出したあげくで使いながら,練り粉を切ってみようというので安くて,足で押して丈夫にするので麹を踏むという。 *2 小麦粉をふるいに¨打って小麦粉おかゆに麹を混ぜ合わせて作ったしずめることでこねて熱いところに厚く覆って,12時間ぐらい痘面蜂の巣のように膨らみながら,練りあん所を作って,その中に入れてかもして熱い部屋にしばらく置いた後また膨らめば万浮き立っておいたサンファを冷水に漬けて浮かび上がるのを順に入れて,煮込む

1700年代

書籍名 著者 出版時期 主要内容
飮食譜 著者未詳 1700 年代 ハングル料理書
内容で酒,おかず,モチと菓子類が出てくる
おかずの調理法中にヌルミが出てくる
山林經濟 洪萬選 1715 年 農村家庭生活で分からなければならない内容を収録した百科事典
肉類の調理法はほとんどモンゴル系の“居家必用”を引用
謏聞事說 李杓 1700 年代 衆人階級が書いた漢文料理書
数多くの熟手らの秘訣を知って記録する

1800年代

書籍名 著者 出版時期 主要内容
林園十六志 徐有榘 1800 年代 家庭百科事典
東西古今の料理書を原文そのまま集めて編集,料理用語が非常に複雑
閨閤叢書 憑虛閣李氏 1815 年 ハングル版家庭百科事典
主食ウイに調理法が詳しく出ている
食經 審諦 1800 年代 清国張英が作った“飯有十二合說”を筆写した
閨민要覽 1800 年代 酒醸造と調理法全般にわたって,詳しく説明する
五洲衍文長箋散稿 李圭景 1850 年代 60冊余りに達する膨大な本
食べ物に対しては山懼餘,行廚陰膳の二つの項目で詳しく説明する
飮食法 著者未詳 1854 年 比較的充実した内容のハングル料理書
飮食類聚 著者未詳 1858 年 醸造が大部分の小冊子
金承旨宅酒方文 著者未詳 1860 年 酒醸造の内容が主となりながら,麺と煮物、醤の調理法が出ている
方書 シン・ソククン 1867 年 いくつかの料理の調理法を紹介する
是議全書 著者未詳 1800 年代 班家料理を書いた専門料理書
伝統料理が簡略に整理されている

1900年代

書籍名 著者 出版時期 主要内容
料理製法 方信榮 1913 年 新式料理書
婦人必知 1915 年 家事を切り盛りする女たちが必ず知っておかなければならない内容
朝鮮無雙新式料理 李用基 1942 年 「林園十六志」鼎俎志をハングルで翻訳
新式料理を挿入して書いた膨大な本
簡便朝鮮料理製法 李奭萬 1934 年 朝鮮のいろいろな料理の調理法
新栄養料理法 李奭萬 1935 年 料理だけでなく,栄養学の基礎と献立表を作成してのせる
朝鮮料理 孫貞圭 1940 年 日本語で発行
ハングルで翻訳して“私たちの料理”で発行する
朝鮮食物槪論 金浩稙 我が国の食物と食品全般を扱い
割烹硏究 京城師範家事研究会 1937 年 料理専門教科書
料理実習時使用法と絵がよく収録される
四季の朝鮮料理 목상점 1935 年 朝鮮料理 97種,西洋料理11種紹介する
朝鮮料理學 洪善杓 1940 年代 国語と漢文混用で出版した本
食品の一般的内容と栄養分に対する内容が収録される
鮮英西洋料理法 京城西洋婦人会編 1930 年 国文および英文対訳版,西洋料理法
家庭料理 著者未詳 解放以後 家庭料理
自国料理製法 方信榮 1952 年 「料理製法」改訂版,現代韓国料理の模範になる
李朝宮廷料理通攷 韓熙順,黄慧性,李惠卿共著 1957 年 朝鮮王朝宮廷料理


文. ユン・ケスン/又石大学校教授食品営営学専攻

出典:以下のURL
http://www.jbfood.go.kr/juhtml/food/foodmu/main.html?
depth02=000400010000&fpmode=view&plcode=000800000000
http://www.jbfood.go.kr/juhtml/food/foodmu/main.html?
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http://www.jbfood.go.kr/juhtml/food/foodmu/main.html?
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http://www.jbfood.go.kr/juhtml/food/foodmu/main.html?
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numlk01@作成中 ver.2007.09.27

2019年12月1日日曜日

韓国料理の特徴

自然環境と食生活

人間の生活面を決定している最も基本的な条件は、彼らが置かれている自然環境や風土とすることができる。
自然環境は大会、宗教などの社会環境に加え、各地域、民族の独特な生活文化を形成する要因として作用し、特に食品の生産や調理方法、利用法など食文化の形成に直接影響を与える。

地理的特性 

韓国はユーラシア大陸の北東部側の半島国家で北緯33度から43度、硬度124〜132度に広がっている。北は中国大陸と陸路で接続され、南には日本列島を大しており、西には黄海を間中国大陸と向かい合っている。
このような地理的な位置のために、大陸の先進文化の影響を受け、大陸の文化を日本に伝える橋渡しもし三面の海を通じた海洋文化の流入や貿易交流が可能であった。これにより、食生活にも大きな影響を及ぼし、大陸の耕作する方法、北方の食品、食器など南方の食品などが流入した。

気候の特性 

四季の区分がはっきりし、年平均気温は非常に寒い一部地域を除くと、10〜14℃程度である。
夏には北太平洋の亜熱帯高気圧の影響を受けて、毎日の最高気温が30℃を超える高温多湿な気温を示す。
降水量も多く、年間降水量の40〜60%がこの時期に集中して稲作に適した気候条件となる。冬にはシベリアから吹いてくる大陸性高気圧の影響で寒く乾燥した気候を見せる。
済州島の南端から咸鏡道の北端までの長い半島で、南北の気温差が大きく蓋馬高原気候型、北部気候型、中部気候型、南部気候型と南海岸型など様々な気候が存在している。
このような気候の特徴は、国土の広さに比べて、米だけでなく麦、ジョー、大豆、小麦などの各種雑穀類と様々な食品が製造されることがあり、それぞれの地域ごとに独特の郷土料理が発達するようになり、季節に応じた試食と絶食の発達を持って来ており、冬の3〜4ヶ月の間の厳しい冬を備えるために、キムチのような保存食が利用されるようになった。

地形特性 

韓半島の地形図朝鮮半島の地形産地が全体の面積の70%を占めて平野台はるかに少ない方で、北部と東部には、高い山が多く、東北の地帯が高く南西は低い地形となっている。
したがって、主要な河川は、豆満江を除いて、ほとんどの西海や南海に向かって流れて、この地域の周辺に広い平野が形成されて西部と南部地方は稲作の中心となり、北部と東部では、畑作物が主に生産された。
また、三方を海に囲まれており、東海岸は海岸線が単調で焙煎水深が深い一方西海岸と南海岸は平野が海に接続されており、黄海は浅い海に大陸棚を形成している。
水の水温が季節に応じて変化し、西海のと東海と南海に影響を与える海流が異なるため、ナンリュソン語族と韓流性語族に差があり、水域や季節に応じて様々な水産資源を利用することができる。
以上のように、韓国は狭い国土であるが、南北の長さが長く、三方を海に面している水陸両面の地理的な位置で様々な産物を利用して、近隣諸国との文化交流することで、食文化が多様に形成されることができた。遠い過去の狩猟と採集を介して自然から食品を求めた時代はもちろん、自然環境に適応して牧畜と農耕が行われていた時代と科学の目覚ましい発達に自然環境を克服し、生きていく今日も自然環境の特性は、人間の食生活に大きな影響を及ぼしている。

韓国料理の特徴

韓国料理は真心と努力がたっぷり入るので作る人の心構えと態度を重要視する。株式のご飯と冷たい水を腐食のように食べるの形で発達して食品配合が合理的であり、食品の栄養、色、間冗談、温度の調和を追求する。株式は、米や麦など、さまざまな穀物類を、冷たい水では野菜、肉、魚などの材料を利用し、季節に合わせてキムジャン、章、塩辛追加、野菜乾燥などの保存発酵食品と乾燥保存食品を作って基本的な冷たいや調味料に利用する。
 
穀物食品のさまざまな利用 

稲の写真朝鮮半島で新石器時代雑穀農業で開始し、紀元前2000年ごろに稲作が始まって以来、米や麦や雑穀など穀物で作ったご飯を主食としている。
そのほかにもお粥、麺、餅のような穀物食品を通常利用し、穀物を加工して作る飴、酒、場などが多様に発達した。
韓国人にとって穀類米は食文化の中心となって農耕社会が本格化した時期以降から今日までずっと続いてきている。
死んだ最初の穀物食品としてご飯やお餅よりも先に使用されたとみられ、ご飯が日常的な主食に定着され、死んだ保養食、記号食、救荒食として多様に発展され、餅は、主に儀礼食として利用されている。
韓国日常食の大きな特徴で、主食や副食の区分が明確であることを挙げられるが稲作をすることになって穀類が主食の位置に魚介類、野菜類が副食に定着されて炊飯が一般化された三国時代後期から日常識的に主、副食が区分されて定着したものと見られる。

発酵食品の発達 

韓国料理には長い歴史を持つ醤類、沈菜類、塩辛類など、さまざまな発酵食品がたくさんある。
これらの食品は、それぞれ独特の味と機能を持っている韓国の食文化の基調食べ物がされて副食、あるいは調味料として利用されている。豆で作った味噌類は良質の動物性タンパク質を容易に入手することができない状況で重要なタンパク質給源にバランスのとれた栄養摂取を可能にしただけでなく、食べ物に味を合わせて調和した味を出す調味料として料理の味を左右すること常識の基盤となる食品である。
キムチは新鮮な野菜を得ることができない、冬に備えて開発されたユニークな保存食品として米のような穀物食品と良い調和を成してご飯の冷たいとなる。最近では、キムチの様々な健康機能性が明らかになって外国でも優れた食品として受け入れられている。

様々な植物性食材利用 
 
様々な野菜の写真私たちの食べ物の材料を見てみると、野菜、キノコ、種実類、海藻類など、様々な植物性材料が豊富である。
特に、韓国で商用する野菜は、栽培野菜を含む山菜、食用の野菜など、その種類が数え切れないほど多くの米、お粥、餅、国、チゲ、ナムル、安、チム、センチェ、煎など、ほぼすべての食品の調理に野菜が使用されている。山やたちで、私はハーブのは、ビタミン、ミネラルだけでなく、食物繊維や抗酸化作用を持つ成分が豊富である。
野菜類の伝統的な調理方法は、面倒で時間と労力がかかるが、野菜は、株式に添えて食べる腐食として、今日も私たちの食生活において重要な位置を占めている。
時代を経てきて伝統的に使用された野菜に加えて、新しい野菜が流入、栽培されてレシピも開発されて多様に利用すること無機質とビタミンの供給だけでなく、独特のテクスチャと色と香味に食べ物の3次的な機能性を高める貢献する。

スープの食文化の発達 
 
韓国料理はスープ料理は、多くの湯飯文化が発達して、日常的な半献立に国が必ず上って来てチゲ、鍋などの種類も非常に多様である。したがって食べ物を口まで運ぶツールとしてスプーンの使用が普遍化された。
ヨーロッパを含むアジア、アラブ、アフリカなど、世界的に伝統的な食事ツールは、指であった。
水気がないか、少ない食べ物は、道具を使用せずに、直接手でつまんで食べることができますが、チゲや国を手に食べることはできないので、世界的に珍しいようスプーンが使用されたものである。
水気の多い食品は、調理器具の形にも影響を及ぼし空洞立体性容器を主に使用するようにし、世界的に一杯に複数の食品を入れて食べる一器多食文化がほとんどであるのに対しボウルにされた食糧だけ入れる一器一食文化を成すようになった。

藥食同源の思想 
 
韓国料理は中国の影響を受けて、昔から藥食同源のレシピが発達し、[飯より良い薬はない]は、食生活の信仰を持っていた。
つまり、食べることバルジなければ病気が生じ、病気が発生しても式を正しくすると病気が治るという意識である。
食生活を介して健康を維持しようとしたため、保養食や養生料理が発達し、常用するお酒と音清流に漢方薬を添加する調理加工法が普及して病気の予防と治療に利用できるようにした。
食べ物に薬理活性のある蜂蜜、シナモン、松の実、高麗人参、生姜、ナツメ、五味子、クコの実などの漢方薬を使用したりして藥果、藥食、藥酒のように、食品の名前に藥文字を付けるも同様に、私たちの民族は、食生活の重要性を早くから見抜いて藥食同源という哲学的概念を実践したと見ることができる。

朝食を大事に思う 
 
朝食を軽くする西欧の食文化とは異なり、韓国人は一日三食の中で朝食を最も重要視した。農耕生活をしたため、物理的に困難な労働のためには、朝の心強く食べることの必要性があったからであろう。
これは、現代の栄養学的側面から科学的合理的である。夕食と翌日の朝食までのほぼ12時間以上の間隔で朝食の重要性はさらに強調される。
複合的な味
国料理は食材そのものの味より調味料やスパイスを使って複合的な味を楽しむ傾向がある。
甘さ、油性の味、辛さではなく、ほのかな味で、舌先ではなく、口の中全体で感じられる味を出す料理である。醤油、ネギ、ニンニク、ごま塩、ごま油、唐辛子粉、唐辛子粉などをいろいろな薬味として一つの食品には、少なくとも5〜6種類の調味料を複合して使用することにより、このような味の特徴を生かしている。 

伝統の日常食で穀類を中心と主食文化は野菜類、肉類、魚介類など様々な種類の副食を等しく摂取するようにして、栄養上のバランスを持って来るようにする。伝統的な食べ物は油と砂糖などの味とカロリーが濃縮された食材を多く使用していない野菜の利用が多いので、今日最も問題となっている肥満を予防することができる食事に良いと言えるだろう。
近年に来て、所得水準の向上、食品産業の発達、西欧文化の流入などの影響で伝統的な食べ物の摂取量が減少して、米のような穀物の消費の減少、肉食中心の欧米式の食事の増加に加え、様々な食品を摂取するなど韓国人の食生活にも大きな変化をもたらした。食品の消費構造が西欧式に変化しながら、各種の成人病の発現率が高くなっているのが実情である状況で、韓国の伝統的な食生活は、この問題を解決してくれる良い案になることがある。多くの食品の氾濫ながら、私たちの伝統的な食文化が加速的に変容されて忘れ去られていく状況で、伝統的な食べ物の優秀性を生かし伝承させなければならない。

文、ユンギェスン/ウソク大学校教授の食品経営学専攻

朝鮮時代の歳時飲食


http://www.eksfan.or.kr/journal/article.php?code=8896

韓国料理献立


■献立の概要

献立と株式類とチャンプムを上に配列する方法をいう。
国や地方の風習に沿って食品をドレス出す格式は異なりますが、大きく空間展開型と時系列型で分けて見ることができる。空間展開型とあらかじめ上位に準備した食べ物をすべて一度に備えておいた後、食事をすることができるようにしたものをいい、時系列型は、時間間隔をおいて食べ物を一つずつ順番に差し出す姿で、今日、中国やフランスなどの多くの国で採用されてある献立である。
韓国の献立は、伝統的に空間展開型の献立が発達した。
つまり、準備された食品を一度に全部こしらえて食べるのが大きな特徴である。韓国伝統料理の食事のマナーから継承セットするが、非常に重要視されているが、親に食べ物が置かれる位置が定められているなど、それほど形式も難しい。

■韓国献立の変遷

献立のフォームは、その時代の社会文化的な背景と住宅フォーム、家族制度などと関係が深い。
各時代の献立を直接知ることができる文献や資料が多くなく、特に一般庶民の日常食に関する資料はさらに不足している方だ。
*高句麗時代
高句麗の古墳トング舞踊塚の壁画の中に椅子に人が座って直立食卓に食べ物がすべて並べられている様子を見ることができ、また、他の図には、足が付いた上、トレイのように足がないツールに食べ物を運ぶ姿も見ることができている。トングガクジョ総壁画の面会もは、今日の小さな膳のような上に1人ずつ外傷姿の前に座っている姿も見られており、この時代の献立を推測することができる。

*高麗時代

高麗時代日常識の献立を知ることができる韓国の資料はないが、宋のでグンイ書い考慮紀行文「高麗図経」に記録されたことを見れば、お客様のおもてなしに鎌状に出したことが分かる。

*朝鮮時代

儒教理念を根本とした家父長的大家族制度で、大人と人を尊重して外献立の盤上を次下し食べ物を盛る記名も献立に基づいて規格化されているなど、献立の格式が確立された。また、効果を重視して祖先の祭礼を厳格に保ったので祭る手順と珍説に関する文献が残っている。朝鮮時代に描かれた風俗に民家からのゲストを催すとき外献立に催されたことを見ることができる。
朝鮮時代に宮中の宴会記録を少ない文献で王と王族は、それぞれの食品を別々に受け地位が高い高官は外傷姿、下職級は鎌状をしたより下職級の場合には、大勢が一緒にするヅレサンもてなしを受けたことを見るすることができる。

■献立の種類

献立の種類は日常識では上にドレス出す株式に応じて分け、配膳目的に応じて複数の献立に分けることができる。日常識に上に上がる株式の種類に応じて、ご飯とおかずを主とした盤上のアテローム性動脈、綿状、餃子上、お雑煮賞などがあり、ゲストをもてなす賞ギョジャサン、ジュアンサン、ダグァサンなどがある。儀礼的な献立でドルサン、クンサン、ジェトサンなどがあり婚礼、祭礼や年次では、日常食とは全く別の献立をする。つまり、婚礼、還暦、フェホンなどのめでたい儀式献立はクンサンと、いくつかの果物、茶食などを停滞入れるのにこれには、特別な腕前が必要である。

1)半献立
 
盤上にはご飯を主食として、ここにふさわしいおかずを腐食に構成した献立である。通常若い人には食卓、大人にはジンジトサン、王様には食膳に呼ばれる。

*盤上の構成

盤上にはおかずの種類の数に応じて3帖、5帖、7帖、9帖、12帖盤上がありご飯、スープ、キムチ、措置、鍋、醤油、コチュジャン、酢コチュジャンなどの場を除くジェンチョプに盛るおかずの数を指す。つまり、すべての盤上でご飯、スープ、キムチ、庁長は、基本的に置かれ、5帖盤上以上に措置を、7帖盤上以上に蒸しを、9帖盤上以上に鍋を基に置く。チャンで前、回、偏肉を置くときには酢醤油、酢コチュジャンも添える。畳数が増えると、キムチも二三種類をより据え7帖盤上以上の場合、多くの種類の数のおかずをした上に、すべて取り戻すことができないときの補助上ギョトサンを置く。通常民家では、9帖盤上に取り戻すことができた宮中では、12帖盤上を設立した。

▶3帖盤上
[基本]ご飯、スープ、キムチ、醤油、
[おかず]焼きや敵、センチェまたはスクチェ、ピクルスや塩辛、乾いた冷たいうち1つ選択
▶5帖盤上
[基本]ご飯、スープ、キムチ2種類、チゲ(措置)、醤油、ポン酢
[おかず]焼きや敵、センチェまたはスクチェ、ピクルスや塩辛、煮物、ジョンユオ
▶7帖盤上
[基本]ご飯、スープ、キムチ2種類、チゲ、煮物、すき焼き、醤油、ポン酢、酢コチュジャン
[おかず]焼きや敵、センチェ、スクチェ、ピクルスや塩辛、煮物、ジョンユオ、偏肉または回
▶9帖盤上
[基本]ご飯、スープ、キムチの3種類、チゲ2種類、蒸し、鍋、醤油、ポン酢、酢コチュジャン
[おかず]焼きや敵、センチェ、スクチェ、煮物、ジョンユオ、ピクルス、塩辛、乾燥冷たい、偏肉または回
▶12帖盤上
[基本]米2種類、局2種類、キムチの3種類、チゲ2種類、蒸し、鍋、醤油、ポン酢、酢コチュジャン
[おかず]暑い焼き、冷たい焼き、煮物、ジョンユオ、スクチェ、センチェ、ピクルス、塩辛、乾燥チャン、偏肉、回、ポーチドエッグ
上記のように半献立は食材の配合と調理法が重複しないよう、一定の形式で献立の規範を定着させ、穀物、センチェ、スクチェ、肉、魚介類、発酵食品など、さまざまな食品の摂取で栄養的なバランスを図って味の冗談、食品の色、冷、オンの調和を成して嗜好性の高い食事をすることができました。

<半献立の構成原理>

*盤上の配線
 
食事する人の数に応じて、一人が食べるように整えた盤上を外傷、二人が食べるように整えた盤上を鎌状とする。伝統半献立は、階層に関係なく外傷でもてなすのが基本原則や状況に応じて、鎌状もしてドゥレ半分にセットすることもある。配線の原則は、食べる人が便利に食べることができるようにされるだろう。鎌状の場合、お客様や目上の人を中心に配線する。
 
▶外傷
①スプーンは上の右前方におくがスプーンは前方、箸は後ろに並んでて、上の端から3cm程度の外出て置く。
②米は上最前列の真ん中から左に国は、その右側に据えチゲは汁椀後ろに、蒸しはチゲの後ろに置く。
③リズムは茶碗裏側左から醤油、超、酢コチュジャンなどの順に置く。
④キムチは上の一番後列の左からカクテギ、白菜キムチ、トンチミの順におくが一番右にスープ、キムチを置いて、簡単にスープを思い出し食べられるようにする。
⑤中間左におかず類、ハーブ、センチェなどの冷たいおかずを置いて前、焼き、刺身、偏肉など暑いおかずは右に置く。
 
<3帖盤上>

(キムチ、ピクルス、ハーブ、焼き、醤油、ご飯、局)

<5帖盤上>
 
(白菜キムチ、水キムチ、チゲ、煮物、ハーブ、前、焼き、乾燥チャン、醤油、ポン酢、ご飯、局)

<7帖盤上>

(白菜キムチ、水キムチ、センチェ、スクチェ、煮物、蒸し物、乾燥チャン、回転、前、焼き、鍋、酢コチュジャン、醤油、ポン酢、ご飯、局)

▶鎌状
①スプーンは上斜め位置の両側にそれぞれ一着ずつ置いてご飯と汁椀もそれぞれ別々に置く。
②鍋、蒸しは大人やお客様が簡単に食べることができるように、右の近くに置いキムチは鍋、蒸しの後に置く。
③暑い食べ物、肉料理は、大人やゲストの近くに置いておかずは若い人や所有者の方に置く。

2)アテローム性動脈
 
うんが、重湯、おかゆなどの流動食で早朝に初めて簡単に食べる食べ物なので、辛くないトンチミややバクギムチなどの汁キムチと澄んだ措置、乾いた冷たいを備え出す。
 
<アテローム性動脈>

(フォー、トンチミ、ジョワバン、醤油、明確な措置、お粥、空のボウル)

3)面(汁上)
 
麺汁賞暑い麺汁や冷麺に他のおかずを添えて構えた上で婚礼、還暦例のような傾斜時に接待用にチャリミョ普段はランチに、あるいは簡単な食事をすることができるようにセットされる。株式にご飯の代わりに麺、餃子、雑煮を出す腐食には蒸し、ギョジャチェ、チャプチェ、偏肉、前、キムチ類、センチェ、チャプチェなどが出てくる。
来た面状:麺(オンミョン)、蒸し(ニベ蒸し、鯛蒸し)、前、ジャプヌルミ、偏肉、春雨、キムチ、正、餅、非公式、薬と、花菜、でんぷん編を備え出す。
冷麺賞:麺(冷麺)、牛肉すき焼き、前、キムチ、ピクルス、餅手段、花菜などを備え出す。

<面相>

(トクハンと、果物、白菜キムチ、水キムチ、花菜、まま、前、蒸し、偏肉、醤油、ポン酢、焼き、麺)

4)ギョジャサン
 
家の中の幸運な日があるとき、多くの人が集まって宴会できるように大きな賞にいくつかの食品を整える献立である。株式は冷麺や、オンミョン、雑煮など季節に合わせて選択して湯、蒸し、ジョンユオ、偏肉、赤、回、ギョジャチェやチャプチェ、九折坂のようなチェリュ、神仙炉などを出しただ。デザートは脚色編、スクシルグァ、果物、花菜、お茶などを用意する。

6)ダグァサン
 
普段の食事以外の時間に軽食のみおもてなしする時や、あるいはジュアンサン、首長上デザートに出す軽食中心の献立である。
飲料としては、甘酒、修正やなど冷たい音清流と熱いお茶を出して、各季節にふさわしいトクリュ、生類、博識、江汀、正、乳果、ユミルグァ、スクシルグァなどを出す。

文。ユンギェスン/ウソク大学校教授の食品英英学専攻

時代別の食文化


■先史時代の食生活

私たちの民族の生活の舞台であった満州と朝鮮半島に人が住み始めたのは約70万年前と推定される。この時期には、石で作らツールを使用した生活が構成されて旧石器時代と新石器時代に区分する。

*旧石器時代の食生活

旧石器時代の遺跡は、咸鏡北道ウンギ軍グルポリをはじめ、京畿道漣川の全谷里など全国に分布している。旧石器時代の遺跡と遺物をもとに、この時代の人々は、最初に石をそのまま使用している途中、徐々に使い道に応じて、いくつかの打製石器を作って狩りツールと調理器具として使用したものと推定することができる。獣や魚を食って、植物の実や根も採取して食べ、季節に応じて移動する生活をしながら洞窟で住むか、または川沿いに膜家を建て住んで、旧石器時代後期に入り、石器の製作法が強化され、ナイフ、チルゲ、拳斧、鋸歯日など、機能的に整えられた恋慕を使用して狩りしてきた動物たちを簡単にお手入れしたものと推定される。

*新石器台の食生活

旧石器時代に続いて、紀元前8000年頃から新石器時代が始まったものと推定する植物の果実や根を採取して食べる生活をして中期以降に丘陵地帯に移動して集落を形成して原始的な農耕生活と牧畜が始まって狩猟と採集で食糧を栽培する体制に発展することになる。この時代の遺跡も韓半島全域に均等に広がっており、主に大規模な河川流域や沿岸地域で発見される。新石器遺跡で発掘された遺物にはドルチャン、ドルファサルなど磨製石器や釣り、針などの骨ツールがあり、川や海辺に住んで、このツールで魚を捕まえたり貝を採って狩りをしていたものと推定される。韓国新石器時代の遺跡の大部分が貝塚遺跡だここで見ることができる貝、新しいコマク、アワビ、カキ、ムール貝、ホタテ、タニシ、カワニナなどの貝類は、今日もよく利用されるものである。貝類のほか、いくつかの魚の骨が発見され、この時期に魚介類が食生活で大きな割合を占めていたものと思われる。
磨製石器と一緒に新石器時代を代表する遺物は、まさに土器である。櫛目文土器が韓半島全体であまねく発見された土器は、食品を煮て食べたり、食べ残った食べ物を入れておく口実をして、食品を保存し、調理をして食事をするときボウルに入れて食べる生活をしたことを知ることができる。つまり、土器は農業も作って家畜も育てながら、食料が豊富だった新石器時代の姿を推測させてくれる。韓国農業が新石器時代中期頃に血とバッジなど雑穀農業で開始され、穀物の利用が一般化されましたがファクドルやガルドルなどの遺物で知ることができる。これでゴクリプの皮をむき、着替えたしそう間穀物を土器に入れて沸かしてお粥のような形にして食べたものと推定される。

■部族国家時代の食生活

櫛目文土器に続き、北方の遊牧民から青銅器文化が流入された後の栽培作物が拡大されて五穀を栽培することになるなど、農耕が本格的に開始され、牧畜も発達した時期である。中国の華北地方から無文土器を利用する部族が移住してきて農耕文化が入ってきて、稲ノンサボプが伝えられた。その後、鉄器文化を受け入れながら、鉄製農具を利用して、農業技術がさらに発展され、耕地面積の拡大を持ってきて、生産量も大幅に増え、稲作が主作物として定着された。部族国家は、豊作を祈願する剤を過ごしたり、収穫をした後、感謝する行事をした高句麗では同盟、例では武天、三韓では天帝とした。それぞれの国の中の人々が集まって歌舞を楽しみながら食事を食べてお酒を飲んで共同剤を行たが、これらの慣行が以降の農耕儀礼につながったものと見られる。

*シルバーの登場とジュンスク調理

シルクはジュンスク料理を確認することができる調理用具として青銅器時代のいくつかの遺跡から発見されたシールドの形も底に穴が一個あいたもの、小さな穴が所狭しとあいたことなどがあった。続いて、初期鉄器時代の起源前後期の遺跡では、より多くの地域で、多くの数量が発見された。シルクの拡散は、農業の電波発達とともに、穀類のジュンスクレシピが拡大したことを説明してくれる。この時代のジュンスク調理法でチンバプ、チントク、肉類や魚介類の蒸しなどがあったのだ。

*発酵食品の利用

三国志「ちゃ同前」によると、高句麗の人々がチャンさん(藏釀)をよくするという記録があるが、チャンさんは酒造り、章追加、漬物などの発酵食品の総称と解釈される。
【お酒】付与、高句麗など連盟国すべての農業が発達して穀物の生産が多く、米や雑穀でお酒を借りたことを簡単に推測することができる。
【枚】枚の基材である大豆は、すでに青銅器時代に栽培されていた塩を生産したものとみなして、今日、私たちの食文化の核心であるコンジャンの原初をなす形の場を利用したものと見られる。
【漬物】直接文献資料や遺物はありませんが、この時期に東西多くの場所で魚介類、することができ、肉、グァチェなどのヨムジ加工法が実施されていたことから、漬け種類を利用したものと推定することができる。

*肉料理 - メクジョク

部族国家付与では、官職名に家畜の名前を冠したマルコ、呉、低価格、区がなどがあることを推し畜産が盛んたことを知ることができ、特に高句麗は狩猟が盛んだったので、肉を多く利用したものとみなす。高句麗の肉焼きメクジョクは中国の文献にも登場する肉を事前に果実ニンニクで味付けして火に直接焼く料理と推定されて、これは今日まで続いている韓国焼肉の原型とされる。

■三国時代と統一新羅時代の食生活
 
三国時代に入って主要食糧の生産、商用の基本食品の加工法の開発、ご飯とおかずで構成されていることは常識の基本的なフォーム定立など韓国食生活の基本構造が成立する。
鉄器文化がさらに発達して鉄製農機具を使用して、農耕技術も向上して高句麗、百済、新羅の三国は、稲作を中心とする農業が基本産業となった。三国は、異なる気候や風土に適した穀物を栽培したが北部に位置し、高句麗は畑作中心であり、百済と新羅は稲作と畑作を一緒にした。土地制度を整備して洗剤を定め、稲作に必要な灌漑工事を積極的に推進し、飢饉のコントラストと食糧の円滑な供給のためにジンデボプ(賑貸法)、救恤制度(救恤制度)などを制度化した。三国は国ごとに違いはあるが、土地国有私原則でありながら貴族、功臣たちに私有地が認められ、階級に応じた激しい部偏重を持ってきて、貴族と庶民の食生活に大きな差があった。
中濃度ポリシーに穀物が増産されて鉄釜の普及に炊飯が一般化され、ご飯が商用在庫がされて野菜、肉類、魚介類などを腐食することは常識の基本的な構造が確立されており、穀物を主とする餅、プロセス流が発達になった。飯炊きが一般化されるまでのお粥、餅、ご飯はみんなで相溶性を持ったがご飯が商用化された後、餅は儀礼食べ物化したものと推定される。また、農産物の加工方法が発達してお酒、長、キムチ、塩辛などを作って長く保存することができた飴、蜂蜜、油を利用することを知るされて食生活が多様になった。
また、三方の漁場を利用して、漁業技術が発展するようになって造船業も発達して、海洋漁業が盛んに行われており、漁獲量も多かった。百済では、西南ての多くの漁場を保有し、中国にそのポフェクムルを朝貢するほど繁栄した。
三国に仏教が入ってきて殺生禁止に肉料理も制限がされて漁業が大きな打撃を受けたが、一方でお茶を飲む風習が出来た茶器や食器の開発をもたらした。この時、江汀とユミルグァなどのプロセス類が登場した。
新羅が三国を統一しながら、高句麗と百済の独特の文化を受け入れて融合し、より華やかで格調ある食文化を展開したが、これは貴族層の一部に制限された。統一後の時期は農耕がさらに発達して米の生産が増加米飯の株式化一般化され、韓国の食生活システムが定着した時期とすることができる。

■高麗時代の食生活

統一新羅後期の制度と風速を継承した高麗時代には仏教をさらに発展させ国交とした。殺生を禁止したため、肉や魚類利用の代わりにベジタリアンを主とする食生活が発達された。漁業や両軸が禁止されて穀物増産の必要性が増加しているため、グォンノンポリシーに食糧の増産と備蓄に一層力を注いだ。

*野菜料理の開発と調味料を使用

仏教が隆盛に伴い、野菜料理の開発をもたらしチムチェ型キムチのシステムが取れ韓国キムチの伝統が確立された。キュウリ。か、大根、ネギ、アオイなど多くの野菜が利用されたが、これらの植物性食品をさらにおいしく食べる法が講じられて油とスパイスの利用も増えてきた。つまり、調味料の種類が多様化し、この時期に秒を作成利用してゴマの栽培にごま油も使用することがあったのだ。

*車とコース類の発達

仏に車を捧げるホンダ(獻茶)の例と風流で車を楽しむされて茶道の作法も生じました。お茶を飲む風習はコース類の発展をもたらしてきたこれらの食品は、燃灯会、パルグァンフェなど不死のための国家行事と婚礼、各種宴会の必須の食品で使用された。

*外来食品の流入と交流

検討は、建国以来、門戸を開いてソングをはじめ、契丹、余震などの外国人の出入りを自由に可能にするなど、開放的な対外政策を展開した。外国との交流が頻繁になり、交易を介して各種調味料が流入され、特にソング、元の時代との交易でコショウが入ってきており、砂糖も輸入されて、いくつかの層で嗜好品として使用された。
高麗後期にモンゴルの支配を受けて屠殺法いくつかの肉食のレシピも学ぶされて考慮秒仏教の影響で肉食を切除した食生活に多くの変更がきた。また、元国を介して蒸しパンの一種である仮想化(霜花)が入って来て、お酒を蒸留する焼酎法が広く知られ蒙古軍が駐留していた個性、安東、済州などが焼酎の名産地となった。この他にもワイン、キャンディー、コショウなどがあり、検討が元の国に伝えてくれた食べ物ではユミルグァな考慮餃子、考慮病気があった。

*献立の基本的な構造形成とレシピの発展

高麗時代には、穀類、野菜、果物などの使用された食品が非常に多様したレシピと献立が発達した。韓国献立の基本的なご飯と汁物が現れ献立の基本的な構造が形成された。 「高麗図経」に最初に国の記録が現れるソルノンタン他にもトラングク、葵、昆布局、ワカメスープなどの名前が見える。豆を加工したもやしと豆腐がこの時期に利用され始めた調理技法も発達して油に支持したり、揚げられているレシピを用いた。

■朝鮮時代の食生活

朝鮮時代には儒教を国家統治の基本原則として仏教を排斥した社会だったので、儒教的政治倫理に基づいて両班制度を確立し、両班と庶民の生活を区別する差別制度を固着させた。また、4例(四禮)を尊重する思想と先祖ボンジェサの礼儀を習慣に確立して、これらの事象が食生活に大きな影響を及ぼしました。
朝鮮時代に農業は最も重要な経済的基盤であった。農業生産性を高めることは、人々の生活はもちろん、国の安定にも不可欠な日だったので、政府は、清算事業を奨励して農耕地を拡大し、農業技術を向上させ、収穫を増やす努力した。特に「農業直接的」、「クミャン文集」、「農事集成」などノンソが出版された。
食生活が多様化し、準で食べ物を作る調理書などが出てくるされ祝日や時による試食と絶食も楽しまれ、地方によって特色のある郷土料理が発達した。朝鮮時代には、私たちの食文化の伝統が再整備されている時期で、韓国料理の完成期として、今日のような韓国料理の食生活が行われた。

*音叉の衰退

朝鮮王朝のスンユ排仏政策で不可で楽しんで飲んでいた車は儒教文化社会で徐々に姿を消した。茶畑は放置され、全羅道地域のいくつかの寺院の僧侶や帰郷歳していた学者たちの間でのみお茶を飲む風習が続いた。車衰退する代わりにスンニュンを飲み花菜、漢方薬を煎じ作る湯お茶類が多くなり、約主や濁酒、焼酎など家醸酒が発達した。
 
*献立の形式と食生活の規範定立

高麗時代に比べて利用する食品がさらに多様化して、以前の時代のレシピを受け継いで滑らかに献立の形式を確立した。盤上にはご飯を主食とここにふさわしいおかずを腐食に構成した献立で三国時代後期ごろに米の増産と釜の拡大に商用化されたものと見られる。しかし、株式や腐食を分離して、食べ物を最初から上位にすべてドレス出る平面展開を原則として身分や経済都合に応じて3帖、5帖、7帖に格式化したのは、朝鮮時代中期以降である。普段は目的に応じて盤上、アテローム性動脈、綿状、ギョジャサン、ジュアンサンなどの形式が用意されて特別な場合には、儀礼的な献立に赤ちゃんが生まれたとき整える三像から婚礼上、還暦上、ジェトサンなど、厳しい規範の下で配膳慣習が生じた。さらに食品を食べるときの基本的な態度まで提示するなど、朝鮮時代には韓国食生活の規範が確立された時期に見ることができるのだ。

*ガブジャングォン大家族の生活と儀式料理

大家族中心の家族制度で家長の潮汐献立は、誰もが他献立だった。長者継承のガブジャングォン制度が強化され、すべての家庭の儀式は、長者の家で集まって行った。したがって、主婦は家のためのイベントの食品を主管必要があったため、礼儀食品の規範をよく知っている調理の腕前が上達する必要がありました。また、ゲストのための接客規範を尊重し、そのためのお酒と肴食べ物が発達した。このような環境での飲食は、家庭の代を継いで伝授されている、その家庭だけの独特の食べ物で桁を取るようになった。

*外来食品流入

朝鮮時代中期以降に南方から唐辛子、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トウモロコシ、落花生などが伝来された、特に唐辛子の伝来は私たちの食生活に大きな変化をもたらすことになった。唐辛子が唐辛子粉に加工がされたキムチをはじめとする各種食品の調理に重要な香辛料として利用されてコチュジャンと呼ばれる別の形態の調味料を誕生させた。以前の時代からのキムチは、主に塩、コショウ、チョンチョ、生姜などの薬味を利用して作った唐辛子粉を使用して非常にしながらも、複雑な味を持つ食品として定着された。

*救荒食品利用

朝鮮時代には階級社会で貧富の差が大きく、一般の農民たちは、自然災害で飢饉になると、食糧不足に苦しんであり、人為的な収奪もひどく、慢性的な飢餓に苦しんだ。朝鮮中・後期に壬辰倭乱、丙子胡乱など外勢の侵入と泯乱などで社会が混乱して農村が荒廃農地が減り、人口も大幅に減少し、庶民の生活はさらに困難であった。これにより、「救荒本草」(救荒本草)、「グファンチョワルヨ」(救荒撮要1554)、「山林経済」など救荒食品に関連する書籍が出るようにされており、ここに記録された救荒食品は、80〜90種の達し山において、私は植物の葉、茎、根、花や木の実、樹皮などのほとんどの植物の食品であった。これらの救荒食品は、おおむね粥の形で利用されたが量を増やすことができ、過酷な繊維をスムーズに行うことができたからである。

■開花期の社会環境と食生活

19世紀末のイギリス、フランス、ドイツ、オランダなどの欧州諸国は発達した工業生産性をもとに、世界の多くの場所で、植民地争奪のための競争を繰り広げることになった。
中国は二度のアヘン戦争で開港するようになっ続いて日本が明治維新を契機に開港した。朝鮮は西洋勢力の侵略に通常渡すことを拒否する鎖国政策に断固として対応したが、大院君が退いた後、日本と江華島条約を締結して、西洋各国とも国交を結んで西欧の文物を受け入れて近代的改革を推進した。しかし、農民の困難な生活は解決されずに壬午軍乱、甲申政変、東学農民運動を経て、さらに難しくなった。一方、この時期は、中国からのカトリック、実学思想が入ってきて、いくつかの知識人たちが西洋の発達した科学技術を知って、新しい価値観が形成されている大きな変化が始まる時期であった。このような環境では、西洋の宣教師と彼らの洋風新教育によって、様々な食品、レシピなどが伝えられて、外国に行ってきた外交官たちによって西洋の文物や食べ物が紹介されて西洋料理が朝鮮社会に普及し始めた。宮中では、ロシア工事ウェアベルの処刑だった手タクイ閔妃と友情を結び、西洋料理の普及に貢献した。日本とアメリカの最初の留学生であった兪吉濬は、彼の著書「ソユギョンドア」(西遊見聞)で西洋の食べ物について紹介し、その時代の知識人たちと上流層に大きな影響を与えた。

■日帝時代の食文化

日露戦争で勝利した日本は、朝鮮に対する本格的な侵略を推進して、私たちの外交権を奪い、統監府を設置して内定全体の干渉し、1910年日韓併合後の国権を強奪して強圧的な不正統治をした。日本は、土地、米などの物的資源だけでなく、人的資源まで収奪して、韓国は日本の産業の発達に必要な原料の製造者と商品市場に転落した。
農民たちは土地調査事業を通じて土地を略奪されたので、日本人の小作人になるしかなかった。日帝の侵略下で春窮期を越えるためにコンケトムク、ふすま、草根木皮延命する生活をして韓国食文化の低迷期であった。食糧の貧困は、日本末の1937年日中戦争を契機に多くの穀物を供出あたりでさらに激しくなった。しかし、このような状況でも、西欧文明の流入は継続され、日本人が経営する食品メーカーが登場するようになって貧しい生活の中でもお菓子、お酒、ソフトドリンク、食用油、各種缶詰などの西欧の食品が作られて、いくつかの上流階級の食生活で使用された。

■現代の食文化

日本から解放後、今日まで社会環境の急速な変化は、食生活においても、過去これまでよりも大きな変化をもたらした。社会環境に応じて、年代別食文化の特性を調べてみると、次の通りである。

*解放が後から1960年代
 
飢餓と極度の食糧不足の状態が続いた。戦争と飢饉、立ち遅れた農業技術により、海外援助食糧に依存していた時期である。食料の海外援助を受けながら、西欧式の食生活が流入して米穀の不足で粉飾奨励運動が展開されて一般人を中心に小麦粉料理が拡大し始めた。

* 1970年代から80年代
 
経済開発計画の成功結実で、私たちの経済が急成長していた時期で、経済発展とともに、食生活のレベルが向上して空腹を満たす食生活から栄養価と味を追求する豊かな食生活に変化された。株式よりも腐食を強調して、コーヒー。加工食品類など西欧の食品の利用が増加して洋風食文化へと変化し始めた。このような状況では、私たちの伝統的な食べ物が軽視される傾向を帯びたりもした。

* 1990年代から現在
 
経済成長と産業化と情報化の傾向に応じた所得の増大、核家族化、女性の社会進出、グローバル化などの社会環境の急速な変化に食べ物の価値観が変わっている。この時期は、食生活の欧米化の時期と言えるが、食品の消費構造が西欧人たちと似てなって、外国の料理のシンボルが高まっている。忙しい現代の生活のために時間と人材が少ない消費される加工食品やほうが食品の利用が増え、食品産業、外食産業が大幅に増加して開発することになった。主婦たちの食べ物担当の伝統が弱体化されて、これにより、伝統的なレシピの断絶、キムチ、長、塩辛ない作り、招待客と接待文化の断絶、通過儀礼や冠婚葬祭などの儀式の食品の変質、家族の共同の食事の伝統の弱体化、食品のマナーの喪失など食生活の多くの伝統的な要素が消えていることを見ることができる。

文。ユンギェスン/ウソク大学校教授の食品英英学専攻

2018年1月20日土曜日

朝鮮の養鶏


http://db.history.go.kr/item/imageViewer.do?levelId=ju_015_0140_0020_0010



2017年7月25日火曜日

「風土記-山城・尾張・常陸」 江戸時代写 武田祐吉旧蔵本

http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/h16_06_01/mag1/pages/page001.html

2017年1月24日火曜日

未醤


2017年1月11日水曜日

大正期の日本におけるハクサイの普及過程

需要の高まりと種子供給体制に着目して

*清水 克志


抄録

1.はじめに

ハクサイは明治前期に中国から日本へ導入された外来野菜である.一般に外来野菜は,「農商務省統計表」に記載が始まる明治後期以前における普及状況の把握が容易ではない.さらにハクサイに限って言えば,①欧米諸国から導入された「西洋野菜」と比較して導入政策が消極的であったことに加え,②明治後期以降も1941(昭和16)年に至るまで,統計では在来ツケナ類などとともに「漬菜」として一括集計されていたことなどにより,普及の概略を掴むことさえ難しい. 本報告では,ハクサイの普及状況について,量的把握が困難な事情を踏まえ,大正期を中心とした近代における『大日本農会報』や『日本園芸雑誌』,『主婦之友』などの雑誌類,栽培技術書などの記述を主たる分析対象とし,当時におけるハクサイ需要の高まりと種子の供給状況を突き合わせることを通して,明らかにすることを目的とする.


2.普及阻害要因としての「交雑」問題

明治前期には,政府によって山東系のハクサイ品種の導入が試みられたものの,それは内務省勧業寮と愛知県に限定されていた.ハクサイを結球させることが困難であったため,内務省では試作栽培を断念し,唯一試作栽培を継続した愛知県においても結球が完全なハクサイの種子を採種するまでに約10年の歳月を要した.結球種のハクサイは,「脆軟」で「美味」なものと認識されながらも,明治前期時点における栽培技術水準では「交雑」問題が阻害要因となり,栽培は困難とされ,広く周知されるまでには至らなかった.そしてこの時点では,結球種のハクサイよりもむしろ,栽培や採種が容易な非結球種の山東菜がいち早く周知され,三河島菜などの在来ツケナより優れた品質のツケナとして局地的に普及していった. 日清戦争に出征した軍人が,中国大陸においてハクサイを実際に見たり食べたりしたことを契機として,茨城県,宮城県などで芝罘種の種子が導入されたが,この時点でも「交雑」問題によって,ハクサイの栽培は困難な状況が続いた.日露戦争後の関東州の領有によって,中国や朝鮮にハクサイ種子を採種し日本へ輸出販売する専門業者が成立したため,購入種子によるハクサイの栽培が可能となった.しかしながら,輸入種子が高価であることや粗悪品を販売する悪徳業者の多発など,新たな問題が生じた.


3.大正期におけるハクサイ需要の高まり

大正期に入ると,香川喜六の『結球白菜』(1914年;福岡),矢澤泰助の『結球白菜之増収法』(1916年;千葉),川村九淵の『学理実験結球白菜栽培秘訣』(1918年;東京)など,ハクサイの有用性を説き栽培を奨励する栽培技術書が相次いで刊行された.これら栽培技術書では,①ハクサイの「結球性」に起因する食味の良さと軟白さ,多収性と貯蔵性,寄生虫の害からの安全性などが高く評価されていたことに加え,②純良な種子を吟味して入手することが必要不可欠な条件であること,の2点に著述の力点が置かれていたことが読み取れる. 一方,『大日本農会報』には,1918(大正7)年以降,種苗業者による結球ハクサイ種子の広告の掲載が確認できるようになる.野菜類全般の種子を対象とする業者の広告は明治期からみられ,その中にハクサイが含まれるものも散見されたが,大正期に入ってハクサイ種子専門の業者が登場してくる事実は,ハクサイ種子に対する需要の高さと採種に求められる専門技術の高さを示すものであろう.また種子の価格を比較すると,結球種が半結球種や非結球種に比べ非常に高価であったことも確認できる.


 4.育採種技術の確立とハクサイ生産の進展 

大正期も後半になると,ハクサイ栽培に対する需要を背景に,日本国内でハクサイの育採種が試みられ,宮城県や愛知県を中心に各地で国産品種が育成された.その担い手の多くは一般的な篤農家ではなく,より専門的な知識や技術,設備を備えた種苗業者や公的機関であった. 「交雑」という阻害要因が解消され,ハクサイ生産の前提となる種子の供給体制が整ったことにより,昭和戦前期には国産品種の育成地を中心に,ハクサイ産地の成立が急速に進んだ.都市大衆層の主婦を主たる購読者層とする『主婦之友』に,ハクサイ料理に関する記事が初見されるのは1922(大正11)年である.このことは,東京市場において宮城などの産地からハクサイの入荷が本格化する1924年とほぼ時期を同じくして,料理記事が登場していることを意味している.調理法の記事数をみると煮物や汁の実,鍋物などの日常的な家庭料理の惣菜の割合が高い.漬物材料として所与の需要があったハクサイは,同時期の都市大衆層の形成とも連動しつつ,その食生活の中に急速に浸透していったことが指摘できる.


https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2017s/0/2017s_100315/_article/-char/ja/


結球白菜の話と混同している日本人があまりにも多い。
非結球の山東菜は日本よりも先に中国系の移民が朝鮮にもたらしていたりする。



(参考)




煮干し

 


2016年12月28日水曜日

[史料] 山林經濟卷之二 治膳 魚肉 附煮泡

醃肉鮓。醢也 脯日。宜初一初二初七初九十一十三十五。必用神隱 忌初五十四二十三。上同
凡燒肉。忌桑柴火。神隱 燒肉。用簽子。揷於炭火上。蘸油鹽醬細料物。酒醋調薄糊。不住手勤翻燒。至熟剝去麪皮。必用灸편001肉。用芝麻花。爲末置肉上。則油不流。
煮諸般肉。用紙封鍋口。或以楮實同煮。則易爛。其味香美 神隱 煮肥肉。先用芝麻花茄花。同物料調稀糊塗。上火灸편002乾。下鍋煮熟。必用神隱 煮硬肉。用䃃砂。唐材。多食則壞人膓胃 桑白皮楮實。同下鍋立軟。上同 煮陳肉。待滾時。將燒紅炭數塊淬之。則不籨。神隱 敗肉。用胡桃三箇。每箇鑽十數竅同煮。其臭氣。皆入胡桃中。必用神隱
夏月熱肉。單用醋煮。可留旬日。神隱 夏月。用磁器盛熟肉。於鍋中。少貯水燒滾。候冷再燒。常令熱氣不絶。可留一二日不壞。上同
鹿肉。經云。獸肉雖多。惟鹿可食。蓋食靈草。異其衆也。必用神隱
醃鹿尾。刀削去尾根上毛。剔去骨。用鹽一錢。鍮錢五分塡尾內。杖夾風吹乾。上同 醃鹿脯。淨 肉十斤去筋膜。隨縷打作大條。用鹽五兩。川椒三錢。蔥絲四兩。好酒二升。和肉拌淹。每日翻兩遍。冬三日。夏一伏時取出。以線逐條穿。油搽晒乾。神隱
灸편003鹿肉。煮半熟燒。燒法見上。必用
煮鹿舌尾。冷水下慢火煮。水少火慢不損味。必用神隱 煮鹿肉。冷水下煮七八分熟煮。過則乾燥無味。上同
鹿羹。用肉不拘多少。洗淨控乾。先以鹽酒多醋少浴過。用花椒茴香紅豆桂皮。俱爲細末。量肉多少下之。却將酒醋醬油拌匀。加蔥白數莖。入磁器密封其口。用重湯慢火煮。只候軟爛方可食。神隱
牛羹。其製法。與鹿羹同。但心肝肚。腹皮內肉 不必重湯。只可就鍋煮麋爛食之。惟腎 공 可批開剝去內外皮膜。用鹽酒多醋少浴浸一時。入香油椒料打拌匀。燒沸湯攛食。惟髓取出。以蔥花椒末同下。在酒中食。神隱
煮牛肉。滾湯下不蓋。慢火養熟。必用神隱
灸편004牛肉煮熟燒。燒法見上。必用 雪下覓灸편005 。取牛肉作片。以刀背擣之使軟。揷串和油鹽壓置。待其盡入。用慢火燒之。乍浸水旋出更燒。如是者三。又塗油荏而更燒之。極軟味佳。西原方
牛肉。去其筋骨。與雉肉爛擣。和以油醬。印於小刻板。暫乾而食之。其味極佳。俗方
洗猪肚用乾麪。洗猪臟用砂糖。則不腥。神隱
糟蒸猪肚。將猪肚一箇洗淨。將黃芪地黃。洗淨搥碎。裝入肚內。令竹簽簽住。用醇糟包肚。放在罐內。重湯以文武火。蒸熟爲度。上同
岳府臘肉法。新猪肉打成段。用煮小麥。滾湯淋過控乾。每斤用鹽一兩。擦拌置瓮中。二三日翻一度。至半月後。用好糟醃一二宿出瓮。用元醃汁水洗淨。懸於無烟淨室。二十日以後。半乾半濕。以故紙封裹。用淋過淨乾。灰於大瓮中。一重灰一重肉。裝備蓋合。置之涼處。經歲如新。煮時米泔浸一炊時刷洗。用淸水下鍋慢火煮。候滾卽徹薪。停息一炊時。再發火再滾。住火良久取食。此法之妙。全在早醃。須臘月前十日醃藏。得臘氣爲佳。稍遲則不佳。牛羊馬肉。並同此法。必用神隱 又一法。肉三斤作一段。每斤。用淨鹽一兩擦匀。入缸醃數日。逐日翻二二편006 遍。却入酒醋。再醃三五日。每日翻三五次。取出控乾。先備百沸湯一鍋。逐旋將肉入湯蘸。急提起趁熱。以香油匀。刷掛當烟頭處薰之。日後再用臘糟。加酒拌匀。塗肉表裏。再醃十日取出。掛廚中烟頭上。若人家烟少。用糠烟上熏十日。使其烟晝夜不絶。羊肉。亦當依此法。上同 四時臘肉法。將猪肉去骨。三指厚五寸闊段子。同鹽料末醃半日。却入臘水內。每肉一斤。用鹽四兩浸二宿。其肉色味。與臘肉無異。煮時。先以米泔淸者。入鹽二兩。煮一二沸。再換水煮。上同
猪皮水晶膾。猪皮刮去脂洗淨。每斤用水一斗。蔥椒陳皮少許。慢火煮皮軟。取出細切如縷。却入原汁內再煮。稀稠得中。用綿子濾候凝卽成膾。切釅醋澆食。必用
炙羊脅骨。帶皮羊脅。每枝截兩段。用碙砂末一捻。沸湯浸放溫蘸炙。急翻勿令熟。再蘸再炙。如此三次。好酒略浸。上鏟一翻便可餐。必用神隱。 凡猪羊脊膂。獐兔精肉。用羊脂包炙之。亦同此法。 炙羊肉。羊肋羊耳舌生燒。羊胗肪煮半熟。燒羊膊煮熟燒。燒法見上。必用
煮羊肉。滾湯下蓋定。慢火養熟。必用神隱 煮羊頭。撏燎淨下鍋煮。入蔥五莖。橘皮一片。良薑一塊。椒十餘粒滾數沸。入鹽一匙尖。慢火煮熟。放冷切作片。臨食木椀盛酒。洒蒸熱供勝燒者。羊臆尾靶皆可製 必用 煮羊肺肚胎髓。切洗入沙罐煮。用生薑三片。椒鹽各少許。蔥三握。濕紙覆罐口勿泄味。慢火煨候半熟。再切細添些酒。再煮軟供。上同
蒸羊。羊一隻撏淨。去頭蹄腸肚等。用地椒細料物酒醋調匀。澆內上浸一時許。入空鍋內。柴棒架起盆合。泥封發火。不得大緊。候熟。椀內另供原汁。上同
膾羊肝。薄切攤紙上血盡縷。切羊百葉亦縷細。入薑絲醋澆付炒。蔥油抹過不腥。上同
煮熊掌。用石灰沸湯撏淨。布纏煮熟。或糟尤佳。必用神隱態白批小段。焯微熟同蜜食。多食則破腹。上同
煮獐肉。冷水下煮七八分。熟過則無味。上同
炙獐肉煮半熟。燒。燒法見上。
煮兔。肥者一隻。煮七分熟。折開縷切。用香油四兩。煉熟下肉。入鹽少許。蔥絲一握炒片時。却將原汁澄淸下鍋。滾二三沸。入醬些少。再滾一二沸調麪絲。更加活血兩杓滾一沸。看滋味。添鹽醋少許。必用
炙兔肉生燒。燒法見上。
煮驢馬腸。淨洗無穢氣。候半熟漉出。用香油蔥椒。於盆內。拌入胡桃三箇。換水煮軟。必用神隱 煮馬肉。冷水下不蓋。入酒煮。上同
糊犬。黃者大補。黑者次之。用犬一隻。退淨剔去骨。鹽酒醋浴過。每肉一斤。用醇酒一盞。醋一盞。白鹽半兩。油醬少許。細料量下拌匀。用冬瓜一箇。切去蓋取出穰。將肉盛於內。仍用蓋合了。又用竹簽。簽定紙封固。不令漏氣。又用稻草紐索。將冬瓜纏定。又用鹽泥固濟。却用稻糠。火消半着。却將冬瓜。埋在火中。煨過一宿。至次日。剖開食之。其冬瓜亦可食。此法最佳。如無冬瓜。只用瓦罐煮之亦可。神隱 犬一隻。去皮與骨。先以骨。交安於鼎中。只洗其腸。而他臟及肉。並皆勿洗於水。洗則生臭 割裂作片。與油醬及胡椒川椒等諸料物。調匀置於骨上。以陶器。坐安於鼎口。用麪調塗其隙。勿令泄氣。貯水於陶器內。仍以藁草。慢火煮之。待其陶器水熱。易以他水。三易則肉已爛熟。用空石二三立足矣。其味極佳。少無犬臭。俗方 犬肉。與蒜同食。則損人。神隱
炒鷄。鷄每隻治淨。煉香油三兩炒肉。入蔥絲鹽半兩。炒七分熟。用醬一匙。同硏爛胡椒川椒茴香。入水一大椀。下鍋煮熟爲度。加好酒些少尤好。神隱必用
炙野雞生燒。燒法見上。必用
七香雞。用肥陳雌雞。去毛淨洗。從下作穴。出其腸肚。桔梗煮浸。去苦味一鉢。薑四五片。蔥一握。川椒一握。淸漿一鍾。醋油各半鍾子。右七味和雜。納於雞腹內。滓如有餘。同盛於砂瓦缸中。用油紙封其口。又以砂牒蓋之。鼎水重湯。候熟食之。雞味中。第一上品也。俗方
熝鵝鴨。每隻治淨。煉香油四兩。爁變黃色。用酒醋水三件。中停浸沒。入細料物半兩。蔥三莖醬一匙。慢火熟。必用神隱
煮鵝。用櫻桃葉數片。同煮則易軟。神隱
炙野鴨煮熟燒。燒法見上。必用 炙鵪鶉生燒。燒法見上。上同 炙川雁煮熟燒。燒見上。上同
煮雁鶿。靑鷓滾湯下。慢火八分熱두001。必用神隱
醃鴨卵。自冬至後。至淸明前皆可醃。每卵一百箇。用鹽十兩。灰三升拌匀。以卵蘸米飮。於鹽灰內衮成團。收乾瓮內。可留至夏。必用神隱
洗魚。滴生油數點則無涎。神隱 煮魚。冷水或滾湯。下末香則不醒。上同
蒸鰣魚。卽葦魚也 去腸不去鱗。摻江茶。抹去腥洗淨。切作大段盪鑼盛。先鋪薤葉。或茭菜或笋片。酒醋共一椀。和鹽漿花椒少許。放滾湯內頓熟供。或煎食。少用油。油自出。必用神隱
粉骨魚。鯉魚。洗淨勿切碎。鹽醃得所。魚腹內。納細料物椒薑蔥絲。鍋內着水。入酒半盞。放下魚糝。楮實末三錢。蓋定勿走氣。慢火養半日。或一夜。放冷置盤中。其骨如粉。必用
椀子湯。大魚去皮骨。取肉細刴。肥牛猪或雉雞肉細刴。合椒薑菌蔥眞油等物料。爲丸栗子大。中藏海松子一箇。醬與水調鹹淡沸之。取雞卵或菉末爲衣。淖過食之。俗方
魚生膾。去尾肚皮薄切。攤白紙上晾片時。細切如絲。以蘿葍細刴。布紐作米。薑絲少許。拌魚膾入堞。芥辣醋澆。必用
魚熟膾。鯉魚皮鱗。不拘多少。沙盆內擦洗白。再換水濯淨。約有多少添水。加蔥椒陳皮。熬至稠粘。以綿濾淨。入鰾少許。再熬再濾。候凝縷切作膾。用韭黃生菜木犀鴨子笋絲簇盤芥辣醋洗두002。上同
膾醋煨。蔥四莖薑二兩。楡仁漿半盞。椒末二錢。一處擂爛。入酸醋內。加鹽幷糖拌膾。或減薑半兩。加胡椒一錢。上同
酒魚脯。臘月取大鯉魚洗淨。以布拭乾。每斤用鹽一兩。蔥薑絲川椒各少許。和好酒同醃。令酒浸過魚一寸。逐日翻動。候滋味透。取出晒乾削食。必用神隱
酒麯魚。淨洗大魚。切作手掌大。用鹽二兩。神麯末四兩。椒百粒蔥一握酒二升。拌匀密封。冬七日。夏一宿可食。必用
養蟹。秋間多捉蟹。無論雌雄。盛以竹籃。懸置瀑流或急灘。餵以稻穗。春來甚肥。黃膏白肪。珍美無比。列朝詩選 淮南人藏蟹。凡一器數十蟹。以皁莢半挺。置其中則可經歲。類說
糟蟹。九月。揀蟹三十介。去尖淨拭乾。糟五斤。鹽十二斤。醋酒各半升편007。交沈七日熟。留至明年。必用神隱纂要 酒蟹。九月。揀肥壯者十斤淨洗。用稀篾籃盛之。懸當風處半日。或一日。以蟹乾爲度。用炒鹽一斤四兩。明礬末一兩五錢。好酒五斤。同拌匀浸蟹。良久取出。每蟹一箇揭開臍。納花椒一粒。用磁甁收貯。更用花椒摻其上。以紙包甁口。紙上放韶粉一粒。如小豆大。仍將箬葉。扎縛封固。或用好酒。同臘糟五斤。拌鹽製造。其味亦佳。必用神隱 醬醋蟹。揀蟹大者。麻皮扎定於溫煖鍋內。令吐出涎沫取出。每斤用鹽七錢半。醋酒各半升。香油二兩。蔥白五握炒作熟。蔥油醬半兩。茴香椒末薑絲橘絲。各一錢同拌匀。將蟹排在淨器內。傾入酒醋浸之。半月可食。底下安皁角一寸許。上同 醬蟹。揀百箇洗淨控乾。逐箇臍內滿塡鹽。用線縛定。仰疊入磁器中。以法醬二斤。椒末二兩。好酒一斗。拌匀澆浸。令過蟹一指。酒少再添。密封泥固。冬二十日可食。上同 法蟹。大者十箇。淨洗控乾經宿。用鹽二兩半。麥黃末二兩。麯末一兩半。仰疊蟹在甁中。以好酒二升。同物料傾入。半月熟。用白芷末二錢。其黃易結。上同 沈蟹。煮鹽湯極鹹。放冷入缸。以生蟹洗淨拭乾。納於湯中。若沈死蟹。則腐傷。不可食 而使湯高於蟹。仍入川椒。以檟葉塡定其上。以木枝交撑。待熟取用。久留不傷。俗方藥蟹。淸醬和鹽煮。放冷納蟹。入川椒胡椒末等料。餘同上法。上同 沈蟹。以燈照則砂。取食時。不許見燈。神隱必用
石花沈菜。淨洗石花加鹽。又取蔓菁蔥白。切作細片加鹽。待其鹽透。傾出鹹汁煮之。貯於缸中。候其微溫。同沈石花菁蔥。必使石花與鹹汁。多少相均。置諸溫處。覆以衣被。經宿食之。俗方
煮軟泡法。造泡。不堅壓則軟。切作小片。每一串。揷三四箇。白蝦醢汁和水入煮器。以布加其上。使鹽水透出。倒浸泡串於其中而煮之。待其少熟取出。別以石花。入於汁中而煮之。爛擣生薑。和汁以食。極軟味絶佳。俗方

[편-001]灸 : 炙
[편-002]灸 : 炙
[편-003]灸 : 炙
[편-004]灸 : 炙
[편-005]灸 : 炙
[편-006]二 : 三
[난-001]熱 : 甲本作熟
[난-002]洗 : 甲乙本作澆
[편-007]升 : 斤

出典:http://db.itkc.or.kr/itkcdb/text/nodeViewIframe.jsp?bizName=KO&seojiId=kc_ko_g003&gunchaId=av002&muncheId=05&finId=078&NodeId=

2016年12月27日火曜日

謏聞事說 可麻甫串



秀魚或鱸魚농어或道味魚切作片,另以牛肉猪肉木耳石耳蔈古海蔘諸味等及葱苦艸芹諸物為末,魚片一層加饀物一層,又魚片一層又加饀物一層,如是三四層後,捲如周紙樣,以菉末為衣以沸湯煮出後,以刀切作片則魚片及饀物相捲回回如太極樣,乃以苦艸醬食之,饀物諸味分五色為之,刀切後紋理尤佳

http://www.koreantk.com/ktkp2014/kfood/kfood-view.view?foodCd=104496

博海通攷 造蛮椒醬法



太豆精揀淘去沙石,作如末醬令極乾作末篩下。每一斗蛮椒末三合,粘米末一升,右三味用好清醬搜打極稠,入小瓮晒之。俗方則其內加芝麻炒末五合,則膩乾,不好;又粘米末多入,則味酸,不好;蛮椒末過多,則辣甚,不好矣。
一方大豆一斗作作豆腐,絞去水氣,并諸物同打成,熟極羙。合時塩亦佳,而不如好清醬。
一方乾魚鱗切作片,又昆布之多士麻之同入,待熟食之,極羙(乾青魚尤佳)。
一方不用蛮椒或代川椒。

http://www.koreantk.com/ktkp2014/kfood/kfood-view.view?foodCd=104425

謏聞事說 昌苦艸醬造法


콩쑤어二斗白屑餅五升合細末亂搗入於空石中,正二月限七日띄어曬乾後,好苦艸末六升調和,又麥芽一升粘米一升并作末되게쑤快冷後甘醬分數同入,又全鰒五箇好品을비슷비슷졈이고大蝦紅蛤分數同入,生薑作片限一望入缸삭킨後,置之冷處出而食之。
余謂不和以蜜則味應不甘,而此方不載疑其闕也。

http://www.koreantk.com/ktkp2014/kfood/kfood-view.view?foodCd=104492

食少

星湖僿說성호사설 제17권 人事門 食少

余貧者也貧無財之稱財出扵勤力勤力非小少習業不能余安得不貧惟在莭省凡有作為十分思量不可少者外都不為也有一分輕小無妨之意不可雖草芥微物其有用者皆財也何物非可惜今有一物不待用而棄之便是暴殄仁人耻之也財莫重於穀粟一日兩杅飯有口皆吃未必皆其勤力所出故財甞患乎乏絶手不勤而口無饜䖝獸何別古之君子或坐而論道作而行之是則與勤力出粟者均其㓛雖多食無憾若安坐不用心而奪人之勤力出者可乎余性喜書雖終日呻吟一縷一粒皆非吾力所出豈非所謂天地間一蠧耶惟幸有先業焉些些碩斗就其中省其糧不多食為苐一經綸良策夫一杅而省其一合之米人謂無益然一日兩杅則二合矣一家十口則二升矣一郡萬家則積有二千斗之多况一口之費不止一合之少耶又况一人終歲之食積至許多其虚所費龠合皆可惜也我國人務多食天下為最近有漂至琉球者其民笑之曰爾俗常容大碗銕匙抄飯健食如何不貧盖前已漂到諳悉者也余甞觀邉海人一口之食可分三人而無飢國安得不窶哉幼而習飽膓肚漸寬不充則覺飢漸習漸飢有餓死者矣習而有寬則必有習而窄者於是有絶穀不食者山野禽獸氷凍雪積而能不死習之所致也縦不能恒飢豈無减其太過之理飢而難忍者心也非特腹之為也山僧蔬菜而不瘠或孝子断肉多病者嗜慾病之也由是觀之今人之不忍飢心之未㝎也其故何也兵戈既逺安逸成習故也三國以前戰争相續之時安逸不得飢未必皆死矣稼穡無隙倉廪空虚雖欲恒飽得乎今人早起白粥謂之早飯當午頓食謂之㸃心富貴之家或一日七食酒肉淋漓珎異相髙其一日之費可食百人何曾之驕溢家家皆然民生安得不困甚可歎也余謂事之效速莫如忍飢不食一飢二飢未必生疾一升二升随飢米羨也與未忍少飢而米絶先病者愚智何如也

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骨董飯

五洲衍文長箋散稿
人事篇 / 服食類 諸膳[0560]山廚滋味辨證說

骨董飯。菜蔬骨董飯。以平壤爲珍品。如雜骨董飯、鯔膾鮆膾鰣膾芥醬骨董飯、鱅魚新出炙骨董飯、乾大鰕屑蝦米屑骨董飯、黃州細蝦醢骨董飯、蝦卵骨董飯、蟹醬骨董飯、蒜骨董飯、生胡瓜骨董편026飯、油鹽炙海衣屑骨董飯、美椒醬骨董飯、炒黃豆骨董飯。人皆嗜爲珍美。

http://db.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=KO&url=/itkcdb/text/bookListIframe.jsp?bizName=KO&seojiId=kc_ko_h010&gunchaId=&NodeId=&setid=1358654

2016年12月14日水曜日

[史料]明太・明卵の記述

承政院日記7本(脱草124本)孝宗3年9月10日、無人10/19の記事 1652年順治(淸/世祖)9年膳狀に大邱アルジョトを封進せずに明太子を封進した日に江原道で調査して、その封官を從重推考することを求める司饔院都提調の系

○司饔院官員、以都提調意啓曰、江原道各殿進上中、鰱魚卵醢、代以大口卵醢、膳狀中書塡、而以明太卵來納、事極可駭、故陪持人推問、則封進官原州牧使牒報入納文狀內、監司出巡後、本營膳狀及所封各官輸送狀俱以大口卵醢、書塡、而各其所封官、一齊皆以明太卵持納封進云、事甚慢忽、令本道査覈、從重推考、以杜日後之弊、何如?傳曰、允。

http://sjw.history.go.kr/id/SJW-B03090100-01000

承政院日記7本(脱草125本)孝宗3年10月8日ビョンオ12/17の記事 1652年順治(淸/世祖)9年江原道から10月に各殿に進上した生物などが腐敗したことに関連して、その封進官吏の從重推考を求める司饔院の系

○司饔院官員、以提調意啓曰、江原道十月朔各殿進上生物等、或腐破有臭、各種鹽色、盡爲濃【膿】爛、兩色正果、味亦不甘、至於大口魚卵、則以明太卵、添入其內、莫重進上、如是不謹、極爲駭愕。當該封進官吏、請從重推考。傳曰、允。

http://sjw.history.go.kr/id/SJW-B03100080-01200

[1316]北魚辨證說

我東東北海中有一魚。狀狹而長尺餘。巨口細鱗。色淡紅黑。腦有橢圓骨如南瓜子。腹有卵。顆細而黏。又有如羊脂猪胰者。名曰膏脂美。其名曰北魚。俗其稱則明太。春漁曰春太。冬捉曰冬太。以至月登諸市曰凍明太。卵醢曰明卵。生者肉鬆味淡。乾爲鯗。遍于一域。一尾數文。直同四方。爲日用常饌。而閭巷細民。以此爲脯脩享神。儒家貧匱。亦充籩豆。物賤用貴者也。但食之而不識其名。可乎。格物論有達法哈魚者。可質爲此魚。達法哈魚편001。八月自海入江。積數至衆。或有履魚背而渡者。寧古塔、黑龍江土人。取魚炙腊。積以爲糧云。此非我之北魚乎。又聞北海人言。則自仲秋此魚大至。一捉盈舶。積而成山云。尤可驗格物論之達法哈魚也。如或産於中國之四海。則古人已製字爲某魚。而至於此魚。不少槪見。則斯可疑也。若但出於我之東北溟。則許叔重《說文解字·魚部》。有鰅出樂浪東暆。鮮出貉國。魦、鱸、鯄、鱳、䱡、鯜。竝稱出樂浪蕃國。魚名不明。其狀的指爲何魚。是可歎也。然則此魚實無正字可名。復閱日本良安尙順《和漢三才圖會》。則以爲阿羅魚俗用鱱字편002。未詳。按形色略類鱈而大。其口類鱸。三月北海采之。乾者細末。入産後金瘡之藥。能有止血涼血之功云。此豈非北魚耶。鱈。倭之俗字。卽我所謂大口魚。中原所稱吳魚也。鱱。乃倭之所製北魚正字。比諸達法哈魚、阿羅魚、北魚、明太。猶足爲此魚之一幸也歟。【北魚功用。則海澨人取其內腸。爲油可燃。其皮煎膠黏物也。其首煎飮消滯。其全體濃煎成膏。可以補虛及産後腹痛。乾者空心頓喫。可止血痢。其蒸煎之氣。薰頭風有效。倭尙順産後金瘡藥云者。不誣也。】

[편-001]達法哈魚 : 『達法哈魚』부터 『積以爲糧』까지는 《皇朝通志 卷126·魚類》에 보인다.
[편-002]阿羅魚俗用鱱字 : 『阿羅魚俗用鱱字』부터 『能有止血涼血之功』까지는 寺島良安 撰 《和漢三才圖會 卷49·阿羅魚》에 보인다.

http://db.itkc.or.kr/itkcdb/text/nodeViewIframe.jsp?bizName=KO&seojiId=kc_ko_h010&noUpSeoji=&gunchaId=av020&muncheId=02&finId=032&guboonNodeId=seoji&NodeId=ko_s_all




2009年1月15日木曜日

[資料] 需雲雜方

安東禮安烏川洞出身の濯淸亭金綏(1481~1552)が著述した韓国で最初の漢字で書かれた調理書だ。『需雲雜方』には多くの酒に関する内容が書かれていた。’需雲雜方’以前の食べ物に関する書物は、中国から入ってきた『齊民要術’(540年頃), 『農桑輯要』(1273年), 『山居四要』(1360年)等がある。『農桑輯要』は韓国に入ってきて刊行されたという具體的な軌跡が見られるが、’齊民要術’は相當昔からここへ流轉したとされるが刊行された手がかりが発見されていない。よって仮にこのような中国の調理書に酒が登場したとしても、これが’需雲雜方’にそのまま挿入されたと斷定するのは難しい。さらに ’高麗図經’には “高麗にはもち米がなく、蕎麦と麹で酒を醸造する(宋では本來もち米で醸造する).”と説明しているので、中国の釀造法とまったく違う点を宋の使臣がとらえている。このような点から見ると、『需雲雜方』は中国のいろいろな文献に出てくる名稱の酒が記録されていたとしても、すでに韓国化された酒を紹介していたと認識できる。
http://www.andongsoju.net/coding/jap/sub2/sub1.asp


需雲雜方
http://www.soowoonjapbang.com/japanese/main.asp

[機械翻訳] 蘊酒法

온주법(蘊酒法)
  1700년대 후기에 기록된 것으로 추정되는 작자 미상의 한글 조리서.총 22면으로 이루어졌다. 음식과 관련된 항목은 총 56항목인데, 그 중 술과 관련된 항목은 46항목이다
http://koreanliquor.culturecontent.com/dictionary/dt_detail.asp?dic_id=174

『蘊酒法』は、慶北安東市臨河面川前里の義城金氏薬峯派金時雨氏が所蔵している作者未詳の、純ハングル体で書かれた調理書として、1987年に発掘された。本の大きさは40*32cmで11枚(22面)であり、前の部分は字がはっきりとしていて解読がしやすいが、後ろの部分は字体が小さく崩し字になっており紙質も古くなっていたため、解読できない部分が多かった。『蘊酒法』に書かれた食べ物は、總56項であり、内容別に見ると酒類が44項, 麹を作る方法 2項, 醤2項, 餠菓類6項, 飯饌類2項となっていた。その他酒と醤を漬けてはいけない日が書かれており、その後ろには造薬法とその他染色-衣服の管理方法等が記載されていた。すなわち蘊酒法には録波酒-丁香ククリョル酒-淸明酒-カムジョム酒-荷香酒-丁香酒-石香酒-クガ酒-淸明ブルビョン酒-黄金酒-小菊酒酒-シンバン酒-オホ酒等の14種が收録されており、薬用薬酒類には地黄酒-天門冬酒-五加皮酒-蘇子酒-枸杞子酒-チャンチュル酒-アンミョン酒-柏子酒-ノクミ酒等の9種が, 特殊薬酒類には三亥酒と西王母湯ユオクキョン香酒が, 独酒類には梨花酒-サジョル酒-バンサン酒-サミ酒等があり、各種酒を醸す法があり、甘酒を作る方法としてファグク法とチョグク法が, 醤を作る方法としては汁醤と チャプ醤法が收録されている。餠菓類には 煉薬法-薬果法-氷似果-カンジョン-栗茶食-トゥトプ団子等が, 飯饌類には悅口之湯やその他の飯饌類が收録されている。
http://www.andongsoju.net/coding/jap/sub2/sub1.asp

「온주법」의 말자음군 표기
http://anu.andong.ac.kr/~anukor/cgi-bin/wowboard/board.cgi?bd=&j=dl&i=28&c=23

[機械翻訳] 治生要覽

치생요람 [治生要覽]
조선시대 생활지침서의 하나로 조리법, 농업기술, 가축 기르는 법 등에 관해 기술한 책.
2권 1책. 필사본. 저자는 강와(强窩)로 기록되어 있는데 저자와 편찬경위에 대해서는 알 수 없다. 여러 책에서 필요한 내용을 뽑아 간략하게 엮은 책이다. 상권에는 장담그기, 누룩·식초 만들기, 15종의 술 담그는 법, 구황법으로 굶주린 자의 부기를 치료하는 법, 솔잎 등 각종 구황식, 찬법(饌法), 식품저장법 등을 수록했다. 하권은 농업기술로 경작·시비, 벼의 품종, 이앙법, 피·콩·삼·참깨·목화·담배·보리 등의 작물에 대한 풀이, 농구, 양잠, 양봉, 그리고 소·말·돼지·양·닭·오리·개·고양이 등 가축 기르는 법, 각종 채소와 화초, 과일 재배법을 수록했다. 고려대학교에 소장되어 있다.
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=191350&v=42

치생요람
[治生要覽]
또한, 하권에는 일반 농작물의 재배에 관한 것을 ≪농가집성 農家集成≫을 참고하여 서술하고 있다. 이 책의 서문을 보면, 자신이 이와같은 책을 저술할 수 있는 것은 초야에 묻혀 살기 때문에 가능하였다는 구절로 보아, 강와는 실학을 연구하던 시골의 한 유생으로 여겨진다.
우리나라의 식품관계서로는 ≪산거사요 山居四要≫와 ≪지봉유설 芝峯類說≫에 이어 1691년(숙종 17) 완성된 이 책은 세번째의 식품서인바 그 수나 풀이의 수준에 있어서 그 이전의 것에 비하여 한층 발전된 형태이다. 우리나라 식품사연구에 귀중한 문헌으로, 17세기 우리나라 전통식품을 밝히는 데 좋은 기록을 남겼다. 고려대학교 도서관에 소장되어 있다.
≪참고문헌≫ 韓國食經大典(李盛雨, 鄕文社, 1981)
≪참고문헌≫ 農林水産古文獻備要(金榮鎭, 韓國農村經濟硏究院, 1982)
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=236530&v=42

[機械翻訳] 要錄

요록 [要錄]
내용으로는 주식류 11종, 부식류 32종, 떡 16종, 후식류로 차·잡과·정과 등이 13종, 술 27종이 적혀 있다. 특히, 고기 부패방지법이나 송이버섯의 색과 맛을 좋게 하는 법, 밤 껍질 벗기는 요령, 거위 삶는 요령 등은 식품을 다루는 지혜로 특기할만하다.
이때는 고추가 이용되지 않을 때이므로 향신료로 천초(川椒)를 사용한 기록도 있다. 용어나 조리법 등에서 토속적인 특이성이 많이 풍기며, 연대상으로 최고(最古)의 식경에 속하는 책이다. 1983년 이성우(李盛雨)·조준하 (趙駿河)가 역주하여 ≪한국생활과학연구≫ 창간호에 실었다. 고려대학교 신암문고(薪菴文庫)에 있다.
≪참고문헌≫ 韓國食經大典(李盛雨, 鄕文社, 1981)
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=249393&v=46

요록
[要錄]
조선시대의 식품관계서.
1책. 필사본. 책 끝에 국계(國系)를 실었는데, 현종까지 기록한 것으로 보아 숙종 때 만든 것으로 생각된다. 첫부분은 약방(藥方)으로 약재가 아니라 음식을 통한 간단한 민간요법 등을 소개했다. 다음에 약과 등의 조과류(造果類), 떡, 국수, 탕 등 76종의 음식에 대한 조리법을 소개하고, 밤·사과·배·가지·복숭아·석류·능금 등 과일의 보관법, 밤 삶는 법, 장 담그는 법, 고기의 부패 방지법 등을 수록했다. 술빚는 법도 있는데, 이화주(利花酒)·감향주(甘香酒)·백자주(栢子酒)·애주(艾酒)·삼해주(三亥酒)·오정주(五精酒) 등 28종을 소개하고, 이들 술의 효능도 기록했다. 이밖에 조청(造淸) 만드는 법, 은행 다루는 법, 물고기 씻는 법, 거위 삶는 법 등이 있다. 음식 외에도 나무의 방충법, 염색법, 닭·오리 사육법과 파·마늘·토란 등의 재배법도 있다. 현존하는 식품서 중에서는 오래된 것으로 식생활사 연구에 중요한 자료이다. 고려대학교 도서관에 소장되어 있으며, 1983년 〈한국생활과학연구〉 창간호에 수록한 역주본이 있다.
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=174508&v=46

[機械翻訳] 閨壼是議方( 飲食知味方)

규곤시의방동의어 : 음식지미방
1670년(현종 11)경에 이현일(李玄逸)의 어머니인 안동장씨(安東張氏)가 쓴 조리서. 1책. 궁체의 필사본. 표지에는 한문으로 ‘규곤시의방’이라 쓰여 있다. ≪규곤시의방≫의 내용 첫머리에는 한글로 ‘음식디미방’이라 쓰여 있다.
뒤표지 안에는 “이 책을 이리 눈이 어두운데에 간신히 썼으니 이 뜻을 잘 알아 이대로 시행하고, 딸자식들은 각각 베껴가되, 이 책을 가져갈 생각은 하지 말고 부디 상하지 않게 간수하여 쉽게 더럽히지 말라.”는 저술동기와 당부를 적고 있다.
≪규곤시의방≫에는 국수·떡·만두·김치·찜·국·약과 등 25종류의 음식 만드는 법과 술·초 만드는 법, 고기·과일·채소·해산물 저장하는 법 등이 적혀 있다.
총 132조목 중에 술에 관한 것이 51조목에 달하여 술빚기가 상류층 가정주부의 중요한 일이었음을 알 수 있다. 또, 개장고지느르미, 개장국느르미, 누른개 삶는 법, 개장 고는 법 등 개고기 조리법이 많이 적혀 있어, 개고기를 다양하게 이용했음을 알 수 있다.
≪규곤시의방≫에는 고려 말에 등장한 발효떡인 상화(霜花)의 구체적인 조리법이 문헌상 처음으로 설명되어 있는 점, 녹말·녹두가루·메밀 등을 이용하는 국수 종류가 많은 점, 훈연법에 의한 고기저장법이 적혀 있는 점 등은 특기할만하다.
또한, 비시나물 쓰는 법이라 하여 겨울에 움 속에 흙과 거름을 깔고 승검초·산갓·파·마늘 등 채소의 싹을 내어 쓰는 법은 지금의 온상재배와 비슷하여 주목된다. 이 밖에 조리기구가 간단하고 조리조작이 장시간에 걸쳐 이루어진다는 특색도 있다.
≪규곤시의방≫은 우리 나라에서 가장 오래된, 구체적인 조리·가공서이다. 안동장씨가 살고 있는 고장에 예로부터 전해 내려오는 조리·가공법을 후손에게 전수하려 했다는 데에 큰 의의가 있다.
≪규곤시의방≫에는 현재는 잘 쓰지 않는 동아·꿩·개고기·천초 등의 식품과 상화법·웅장 등 드문 조리법이 기록되어 있다. 우리 나라 음식의 변천과정을 파악하는 귀중한 자료가 된다. 재령이씨의 13대 종손인 이돈(李燉)이 영인본을 펴냈다. 1980년 황혜성(黃慧性)이 해설편을 냈다. 경북대학교 도서관도서에 있다.
≪참고문헌≫ 韓國食經大典(李盛雨, 鄕文社, 1981)
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=276441&v=45

閨是議方(ウムシクドィミバン)は、東アジアで最初の婦女子が著述したものだ。貞夫人安東張氏が書いたもので、息子である存齋李徽逸(1619~1672)の宗家にあったものを1958年に慶北大学校のどう図書館に寄贈された。著者の直筆である<ウムシクドィミバン>という本の題名は、本の頭にハングルで書かれてあった。本には料理とその調理方法がぎっしりと記録ているのだが、その中でまず目に止まるのは字体だ。紙いっぱいに書かれた字は、誠意を持って本を書く著者の真心と品性がうかがえる。また、本の内容を見ると各各料理に対する調理過程が詳しく記録されているだけでなく、食べ物を種類別に分けて體系的に整理している。麺餠類15種と造果類12種, 魚肉類46種, 菜蔬類19種, 酒類51種, 食醋3種まで、その種類は全部で146種だ。また、この〈ウムシクドィミバン〉の後ろには、この本を作成した張氏夫人が読者である婦女達へ伝える言葉が書かれていた
http://www.andongsoju.net/coding/jap/sub2/sub1.asp

飲食知味方
http://jpdimibang.yyg.go.kr/

内容の詳細な紹介。
http://helloandong.go.kr/KOREA/Prog/Life/b021.asp?CategoryID=01030700

原文
http://archives.hangeul.go.kr/scholarship/technique/view/967


[機械翻訳] 攷事撮要

고사촬요 [攷事撮要]
1554년(명종 9) 어숙권(魚叔權)이 편찬한 유서(類書 : 백과사전). 조선시대 사대교린(事大交隣)을 비롯, 일상 생활에 필수 불가결한 일반 상식 따위를 뽑아 엮은 것이다. 어숙권의 원찬(原撰)에서부터 1771년(영조 47) 서명응(徐命膺)이 ≪고사신서 固事新書≫로 대폭 개정, 증보하기까지 무려 12차에 걸쳐 간행되었다.
초간본은 현재 전하고 있는 것이 없다. 다만 후간본에 의해 그 체재와 내용이 짐작되는데, 현존 최고본(最古本)은 1568년(선조 1)에 발간된 을해자본(乙亥字本)이다.
여러 간본의 내용을 분석, 검토해보면 다음과 같다. 대명관계(對明關係)를 유지하고 있던 때에 편찬된 것은 대명관계 기사가 증가되었으나, 명나라가 멸망한 뒤에 간행된 것은 대청관계(對淸關係) 기사를 고의로 채택하지 않았다.
즉, 그 이전 간본의 대명관계 기사를 형식적으로 답습하면서 우리 나라 기사를 대폭 증가시켰다. 이것은 청나라에 대한 멸시감이 작용했기 때문이다.
간본 중, 1576년(선조 9)에 간행된 을해자본 복각본은 방각본(坊刻本) 가운데 가장 오래된 것으로 방각본 연구에 도움을 준다. 1585년(선조 18)에 간행된 목판본은 그 다음으로 오래 된 방각본이다. 우리 나라의 방각본이 이미 임진왜란 이전에 시작되었다는 것을 입증해 주는 좋은 자료이다.
내용은 봉건적인 왕정정치(王政政治) 아래서는 필수 불가결한 것들이나 오늘날에는 활용 가치가 적다. 그 중 책판목록(冊板目錄)을 비롯, 서책시준(書冊市准)과 서책인지수(書冊印紙數)가 서지학적으로 관심의 대상이 될 만하다.
책판목록은 임진왜란 이전 전국 각지에서 개판된 책판의 지역별 목록이다. 선조 1년(1568)간 을해자본, 동왕 9년(1576)간 을해자본과 을해자본 복각본, 동왕 18년(1585)간 목판본 등에 모두 수록되어 있다. 그러나 대부분의 책판이 임진왜란 때 불타 버려 그 이후에 간행된 ≪고사촬요≫에는 책판목록 대신 각 지역별 토산품이 수록되어 있다.
이 책판목록은 조선 최초의 도서 목록이다. 때문에 임진왜란 이전 각 지방에서 발간된 도서의 간행지와 간행 연도를 추정하고 산일(散佚)된 도서를 확인할 수 있는 유일한 자료이다. 여기에 수록된 책판은 모두 989종이다.
지역별로 보면, 경상도 387종, 전라도 337종, 황해도 77종, 평안도 67종, 강원도 61종, 충청도 37종, 함경도 19종, 경기도 2종이다. 분류별로 보면, 경부 218종, 사부 117종, 자부 391종, 집부 242종, 미상 19종이다. 서명별로 보면, 655종으로 제일 많은 것은 ≪효경≫으로 14회 개판되었다.
그 다음이 ≪대학≫과 ≪소학≫으로 12회, ≪중용≫ 11회, ≪정속 正俗≫ 9회, ≪가례 家禮≫·≪동몽수지 童蒙須知≫·≪십구사략 十九史略≫ 각 8회, ≪성학십도 聖學十圖≫·≪예부운 禮部韻≫·≪진서 晉書≫ 각 7회, ≪고문진보 古文眞寶≫·≪농서 農書≫·≪동몽선습 童蒙先習≫·≪삼강행실 三綱行實≫·≪여씨향약 呂氏鄕約≫·≪적벽부 赤壁賦≫가 각 6회 개판되었다.
≪경민편 警民編≫·≪구급간이방 救急簡易方≫·≪문장궤범 文章軌範≫·≪병풍서 屛風書≫·≪약운 略韻≫·≪잠서 蠶書≫·≪장감박의 將鑑博議≫·≪천자 千字≫도 각 5회씩 개판되었다.
그 밖에 ≪구소수간 歐蘇手簡≫ 등 26개 책판은 각 3회, ≪간이방 簡易方≫ 등 78개 책판은 각 2회, ≪노걸대 老乞大≫ 등 510개 책판은 각 1회씩 개판되었다.
서책시준은 주로 교서관에서 발간한 34종의 도서에 대한 판매 가격을 기록한 것이다. 인조 14년(1636)간 을해자체 훈련도감자본(訓鍊都監字本) 고사촬요까지 수록되어 있다. 서책인지수는 188종의 서적에 대해 인쇄에 필요한 종이의 수량을 기재한 것이다. 현종 15년(1674)에 간행된 무신자본(戊申字本) ≪고사촬요≫부터 수록되어 있다.
당시 사회 사정을 아는 데 도움이 되며, 특히 서지학적 측면에서 높이 평가되는 자료이다. 규장각도서·장서각도서·국립중앙도서관 등에 있다. →고사신서
≪참고문헌≫ 韓國古印刷技術史(金斗鍾, 探求堂, 1979)
≪참고문헌≫ 攷事撮要의 冊板目錄硏究(金致雨, 民族文化 1, 1983)
≪참고문헌≫ 攷事撮要の冊板目錄について(李仁榮, 東洋學報 30-2, 1943)
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=235877&v=44

고사촬요 [攷事撮要]
조선 중기의 학자 어숙권(魚叔權:?~?)이 조선시대의 사대교린(事大交隣)을 비롯하여 일상생활에 필요한 사항을 뽑아 엮어놓은 책.
3권 3책. 인본(印本). 1554년(명종 9) 어숙권이 유서(類書)로 처음 편찬했다. 선조 때 허봉(許■) 이 증보, 박희현(朴希賢)이 속찬(續撰), 인조 때 최명길(崔鳴吉)이 증감수정(增減修正)했다. 다시 1771년(영조 47) 서명응(徐命膺)이 〈고사신서 攷事新書〉로 대폭 개정·증보하기까지 무려 12차에 걸쳐 간행되었다. 초간본은 현존하지 않으며, 후간본에 의해 그 체제와 내용이 짐작된다. 현존하는 가장 오래된 판본은 1568년(선조 1)에 발간된 을해자본(乙亥字本)이다. 이 책은 당시의 중국과 우리나라의 관직·조공(朝貢)·예식·민간요법·상식 등 제도의 전반과 한중관계사(韓中關係史)를 살피는 데 빼놓을 수 없는 자료이다. 특히 〈고사촬요책판목록 攷事撮要冊板目錄〉은 조선 최초의 도서목록으로서 임진왜란 이전 전국 각지에서 발간된 도서의 간행장소와 간행연도를 추정할 수 있는 유일한 자료이다. 규장각·국립중앙도서관 등에 소장되어 있다.
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=113269&v=44

[機械翻訳] 芝峰類說

지봉유설 [芝峰類說]
≪지봉유설≫의 권두에 김현성(金玄成)의 제문과 이수광의 자서가 있다. 권말에 이식(李植)의 발문이 있다. 이수광은 자서에서 “우리 나라가 예의의 나라로서 중국에 알려지고, 박학하고 아존(雅尊)한 선비가 뒤를 이어 나왔건만 전기(傳記)가 없음이 많고, 문헌에 찾을 만한 것이 적으니 어찌 애석하지 않겠는가……(중략)……오직 한 두
가지씩을 대강 기록하여 잊지 않도록 대비하려는 것이 진실로 나의 뜻이다.”라고 저술동기를 밝히고 있다.
≪지봉유설≫은 총 3,435조목을 25부문 182항목으로 나누고 있다. 그리고 반드시 그 출처를 밝혔다. 그러나 간혹 빠진 것은 망의(忘意)에 의한 것이다. 인용한 서적은 육경(六經)을 비롯하여 근세 소설과 여러 문집에 이르기까지 348가(家)의 글을 참고하였다. 기록한 사람의 성명은 상고(上古)에서 본조(本朝)까지 2,265명이다. 별권에 기록하였다. 그 중에 간혹 성(姓)만을 적은 것은 저자 이수광이 의도적으로 한 듯하다.
≪지봉유설≫은 권1 천문·시령(時令)·재이(災異), 권2 지리·제국(諸國), 권3 군도(君道)·병정, 권4 관직, 권5∼7 유도(儒道)· 경서·문자, 권8∼14 문장, 권15 인물·성행(性行)·신형(身形), 권16 어언(語言), 권17 인사·잡사, 권18 기예(技藝)·외도(外道), 권19 궁실(宮室)·복용(服用)·식물, 권20 훼목(卉木)·금충(禽蟲)의 25부문으로 분류되어 있다.
≪지봉유설≫에서 가장 두드러진 내용은 서구 문명을 소개한 것이다. 서양 문물에 대한 견문과 새로운 문화에 대한 이수광의 관심이 나타나 있다. 이는 조선 중기 실학의 선구자로서 이수광의 면모를 나타내 준다. 이수광은 ≪천주실의 天主實義≫ 2권을 소개하면서 천주교의 교리와 교황에 관하여도 기술하고 있다.
≪지봉유설≫을 언어학적인 측면에서 보면 비교언어학적인 시도와 어원의 해석, 어휘의 수집, 언어원리의 지적(指摘), 한글 자형의 범자모방설(梵字模倣說) 등의 내용들이 있다.
≪지봉유설≫ 권8에서 14까지의 문장부(文章部)에 문·문체·문평(文評)·고문·사부·동문(東文)·문예·시·시법·시평·어제시(御製詩)·고악부(古樂府)·고시(古詩)·당시(唐詩)·오대시(五代詩)·송시(宋詩)·원시(元詩)·명시(明詩)·동시(東詩)·방류시(旁流詩)·규수시(閨秀詩)·창첩시(倡妾詩)·가사(歌詞)·여정(麗情)·애사(哀詞)·창화(唱和)·대구(對句)·시화(詩禍)·시참(詩讖)·시예(詩藝)에 대한 그의 다양한 비평문학적 견해들이 피력되어 있다.
이수광이 활동하였던 시대는 실학정신이 잠동(潛動)하고 있었던 때이다. 그는 ≪지봉유설≫을 통하여 실용·실리추구의 정신과 실증정신·민본정신 등 무실(務實)의 정신을 역설하고 있다. 이러한 고증적이고 실용적인 그의 학문태도는 공리공론(空理空論)만을 일삼던 당시의 학계에 새로운 바람을 일으켰다.
그 뒤에 이 책과 같은 체재가 이익(李瀷)의 ≪성호사설≫, 홍만종(洪萬宗)의 ≪순오지 旬五志≫, 이의풍(李義風)의 ≪고금석림 古今釋林≫, 정동유(鄭東愈)의 ≪주영편 晝永編≫, 유희(柳僖)의 ≪물명고 物名考≫ 등으로 이어지고 있다.
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=287872&v=47

지봉유설 [芝峰類說]
조선 중기의 학자 이수광(李●光:1563~1628)이 편찬한 백과전서.
20 권 10책. 목판본. 저자의 서문에 의하면 우리나라는 예의로써 중국에 알려진 선비가 많지만 전기가 없고 찾을 만한 문헌이 적은 점을 안타깝게 생각하여 평소에 기록하여 모은 것이라고 한다. 이렇게 분류도 없이 틈틈이 기록해두다가 1613년(광해군 5) 영창대군 사건으로 관직을 버리고 은거하면서 원고를 분류·정리하여 1614년경에 편찬했다. 1634년(인조 12)에 아들 성구(聖求)·민구(敏求)가 의춘(宜春:지금의 의령)에서 〈지봉선생집〉과 함께 출판했다. 자서(自序)와 김성현(金成玄)의 제문(題文), 이식(李植)의 발문이 있다. 범례에 의하면 총 3,435항목으로, 내용은 고서와 자신의 지식에서 나온 것이라고 하며 일일이 출처를 밝혔으나 기억 나지 않은 것은 적지 않았다. 그리하여 총 384가(家), 2,265명의 저술을 인용했는데 성만 적고 이름을 적지 않은 것도 있다. 모두 25부 182항목으로 분류되어 구성되었다. 25부는 천문·시령(時令)·재이(災異)·지리·제국(諸國)·군도(君道)·병정(兵政)·관직·유도(儒道)·경서(經書)·문자·문장·인물·성행(性行)·신형(身形)·어언(語言)·인사(人事)·잡사(雜事)·기예(技藝)·외도(外道)·궁실·복용(服用)·식물·훼목(卉木)·금충(禽蟲)이 다. 그밖에 편자는 마테오 리치(한국 이름은 李瑪竇)의 〈천주실의 天主實義〉를 이용하여 천주교의 교리와 교황을 소개했으며 세계 지형과 풍물·문화를 알렸다. 외국으로는 중국·일본은 물론 베트남·타이·인도네시아·말레이시아 등 동남아시아와 프랑스·영국의 사실까지 소개했다. 일례로 영국에 대해서는 당시 함대가 최강이며 기계로 작동되는 철로 만든 배를 가지고 있다고 했으며, 서구의 모직물과 대포 등을 소개했다. 항목마다 다양한 내용과 비평·고증이 곁들여 있어 편자의 실학자로서의 면모를 보여주고 당시 중국을 통해 알려지기 시작한 천주교와 서구 문물을 소개한 점 등 우리나라에서 편찬된 유서(類書)로는 선구적 책으로 가치가 높다.
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=190433&v=47

原文はこちらで読めます。http://www.minchu.or.kr/MAN/index.jsp

[機械翻訳] 屠門大嚼

도문대작 [屠門大嚼]
1611년에 허균(許筠) 이 우리 나라 팔도의 명물 토산품과 별미음식을 소개한 책. 1권 1책. 필사본. 허균은 조선시대 중기의 문신으로 형조판서와 의정부참판을 지냈다. 이 책은 허균이 바닷가로 귀양갔을 때에 쓴 책이다. 귀양지에서 귀양지의 거친 음식을 먹게 되자 전에 먹었던 좋은 음식을 생각나는 대로 적어놓은 것이다.
≪도문대작≫의 서술 내용에는 병이류 11종목, 채소와 해조류 21종목, 어패류 39종목, 조수육류 6종목, 기타 차·술·꿀·기름·약밥 등과 서울에서 계절에 따라 만들어 먹는 음식 17종을 부기하였다. 병이류 중의 별미음식과 명소에 대하여 다음과 같이 서술하였다.
방풍죽은 강릉, 석이병은 표훈사, 백산자는 진주, 다식은 안동, 밤다식은 밀양, 차수(叉手:칼국수)는 여주, 엿은 개성, 웅지정과(熊脂正果)는 회양, 콩죽은 북청의 것이 명물이라고 소개하였다.
≪도문대작≫은 어패류도 그 명산지를 함께 해설하였다. 경상우도의 상인이 전복을 말려서 꽃모양으로 오리거나 얇게 저미는 화복(花鰒)을 만드는 기술에 능하다고 소개하였다. 조수육류에서는 웅장(熊掌 : 곰의 발바닥)·표태(豹胎 ; 표범의 태)·녹설(鹿舌 : 사슴의 혀)·녹미(鹿尾 : 사슴의 꼬리) 음식의 명소를 소개하였다. 이밖에 여러 품목에 관하여 식품의 소재뿐 아니라 그 식품에 관한 음식관습까지 언급하고 있다.
≪도문대작≫은 특히, 허균 자신이 직접 그곳을 찾고 음식을 맛본 것이다. 따라서 간략한 해설이지만 식품과 음식의 실상을 알 수 있는 좋은 자료가 된다.
더욱이 별미음식이 넓은 지역에 걸쳐 선정되어 있으므로 당시, 상류계층의 식생활과 향토의 명물을 일별할 수 있다. 17세기의 우리나라 별미음식을 알 수 있는 좋은 자료라고 할 수 있다.
국립중앙도서관, 연세대학교 도서관, 규장각도서 등에 있다. 1961년 성균관대학교 대동문화연구원에서 영인, 간행되었다.
≪참고문헌≫ 韓國食經大典(李盛雨, 鄕文社, 1981)
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=242405&v=43

도문대작 [屠門大嚼]
조선 중기의 학자 허균(許筠:1569~1618)이 지은 우리나라 8도의 명물 토산품과 별미음식을 소개한 책.
1권 1책. 필사본. 1611년(광해군 3) 허균이 귀양지인 전라북도 함열(咸悅)에서 기존의 초고와 기억을 토대로 엮은 〈성소부부고 惺所覆■藁〉 26권 중 제26권이다. '도문대작'이란 푸줏간 앞을 지나면서 크게 입맛을 다신다는 뜻으로, 병이류(餠餌類) 11종, 과실류 30종, 비주류(飛走類) 6종, 해수족류(海水族類) 40종, 소채류 25종, 미분류 5종 등 총 117종의 식품에 대한 분류와 명칭, 특산지, 재배 기원, 생산 시기, 가공법, 모양, 맛 등의 내용을 몇 가지씩 기록하고 있다. 특히 현재 채소로 전혀 사용되지 않는 목숙(■■)이 당시 좋은 식품이었다는 점과 원주(原州)가 그 특산지였다는 사실은 목숙연구에 좋은 참고가 된다. 또한, 고려 삼별초의 항쟁 때 몽고의 장군인 홍다구(洪茶丘)가 우리나라에 처음으로 수박[西] 을 들여와 개성에서 재배했다는 기록이 보이는데, 이는 고증이 필요할 것으로 보인다. 그밖에도 제주산의 귤 종래 금귤(金橘)·감귤(甘橘)·청귤(靑橘)·유감(柚柑)·유자(柚子)·감류(甘榴) 등 6종과 백어(白漁)·소라·홍합·화복(花鰒) 등을 기록하고 있는데, 특히 화복의 경우 경상우도의 상인들이 전복을 말려 꽃 모양으로 오리거나 얇게 저미는 기술이 능함을 기록하고 있다. 이밖에도 곰의 발바닥, 표범의 태(胎), 사슴의 혀와 꼬리 등 진기한 식품들이 기록되어 있다.
단순한 식품 소개의 차원을 넘어 전국을 대상으로 각 식품에 관한 음식 관습까지 언급하고 있어 17세기 우리나라 별미음식을 알 수 있는 좋은 식품학상의 자료가 되며, 더욱이 별미음식이 넓은 지역에 걸쳐 선정되어 있으므로 당시 상류계층의 식생활과 향토의 명물을 쉽게 알 수 있다. 모반혐의로 국문(鞫問)을 당하기 전 외손자인 이필진(李必進)에게 보내져 보존되었다. 국립중앙도서관, 규장각, 연세대학교 도서관 등에 소장되어 있다.
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=126745&v=43